1 全日本戸山流居合道連盟
全日本戸山流居合道連盟は、大日本帝国陸軍の軍学校であった陸軍戸山学校において、制定・改良、体系付けられた軍刀操法を、第二次世界大戦後に「戸山流」と呼称し、居合道として制定された“日本刀操法の一流派”として技の追及を日々の修練としている。それらに伴う改定を加えると共に、日本国内はもとより、アメリカ、中国、香港、台湾、スペイン等々の日本武道を目指す人達と国際文化交流を行い、海外へも戸山流居合道の研鑽・修練を通じて、日本の武道・文化の普及に努めている。更には会員相互の協力により、不特定多数の市民、団体、外国人を対象に戸山流居合道の普及、支援・助言等の協力活動を行い、各分野での技術水準の向上、次世代を担う人材の育成を推進し、もって社会教育、健全な街づくり、文化・芸術・スポーツの振興、国際協力、子供の健全育成等の公益の増進に寄与することをも目的として活動している。
戸山流の開祖・来歴については、軍刀操法としての制定・改良が大正期から第二次世界大戦終戦までの約20年間に及び、各段階に複数の関係者がいるため、特定個人としての開祖(宗家)は存在しない。
昭和26年に講話条約(サンフランシスコ平和条約)が締結(翌27年に発効)され、日本が独立国となってからは、其れまで禁止されていた日本武道が解禁された。これを機に陸軍戸山学校剣術科長の森永清、山口勇喜や徳冨太三郎、中村泰三郎らの諸氏が軍刀操法を基とした抜刀術を「戸山流」と呼称し、日本各地で普及を開始した。
現在の全日本戸山流居合道連盟の設立当初は、陸軍で軍刀操法を指導していた徳冨太三郎、中村泰三郎の両氏が「戸山流振興会」を設立し、両氏の指導の下に活動を開始したが、他流派の抜刀術団体を取り込む目的で「全日本抜刀道連盟」を設立するとともに、「戸山流振興会」を「全日本戸山流居合道連盟」と名称変更する等、二つの連盟を両輪とした一の組織として活動をしていた。その後幾多の変遷があり、平成13年に「全日本抜刀道連盟」と「全日本戸山流居合道連盟」を分離させ、「全日本抜刀道連盟」は戸山流以外の居合道各流派をも対象とした組織とし、全日本戸山流居合道連盟は「全日本抜刀動連盟」に加盟しているものの、単独の流派として独立した活動を開始した。
2 陸軍戸山学校
陸軍戸山学校は、現在の東京都新宿区戸山にあった旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所を1873年(明治6年)6月に設置したことが始まりとされ、翌年2月、戸山学校と改称した上下士官の軍事訓練を行なう大日本帝国陸軍の軍事訓練学校であった。
陸軍戸山学校教導大隊附であった陸軍歩兵特務曹長太田資が明治40年12月下旬に誌した、陸軍戸山学校沿革ノ大要附校内案内記(抜粋)に、
- 本校ノ創立: 本校ハ明治六年八月ノ創立ニ係リ同月二十日始メテ学生ヲ召集シ校務ヲ開始ス
- 明治八年五月兵学寮廃止セラレタル為メ本校ハ陸軍省ノ直隷トナレリ
- 明治三十年一月二日官制改正ト共ニ監軍部ヲ廃シ更ニ教育總監部ヲ置カルルニ方リ本校ハ其の直轄ニ属シ以テ今日ニ至レリ
- 明治六年ヨリ同十七年ニ亘リ体操射撃剱術専門ノ教師タル佛國ノ将校准士官下士ヲ招聘セリ
- 本校創立の趣旨: 我國兵制草創ノ際ニ方リ全軍ノ教育ヲ一致セシムルノ目的ヲ以テ其学術ヲ講究スルハ當時ノ最大急務ニシテ殊ニ将来ニ於ケル外國軍隊日進月歩ノ趨勢ヲ知悉シ益研鑽ノ効果ヲ収メ常ニ其進歩ニ伴フテ互ニ相駢馳セシムルコトヲ期セザル可カラズ是ニ於テ乎全軍諸隊ヲシテ同一ノ成規ニ基キ諸科ヲ訓練シ面シテ各自其修得セル處ノモノヲ以テ之ヲ原隊ニ普傅セシメ全軍ノ教育ヲ常ニ齊一ナル進歩ノ状況ニアラシムルヲ要ス是レ本校創立ノ趣旨ナリ
- 降テ明治三十六年勅令ヲ以テ本校條例ヲ改正セラル其要旨ニ曰ク陸軍戸山学校ハ学生ニ主トシテ歩兵ノ戦術射撃体操剱術竝ニ鼓譜喇叭譜ノ訓練ヲ為シ以テ各隊ノ進歩ヲ圖リ常ニ諸学術ノ調査研究ヲ為シ携帯火兵ノ研究試験ヲ行ヒ又軍樂生徒ニ樂手補タルニ必要ナル教育ヲ為ス所トス云々
- 本校ニ左ノ科隊ヲ置ク
- 戦術科(元ノ射撃科合併)
- 教導大隊
- 体操科(元ノ剱術科合併)
- 軍樂生徒隊
- 本校ノ学生ヲ分テ左ノ四種トス
- 戦術学生 歩兵大尉(時トシテハ重砲兵工兵士官)
- 體操学生 歩騎砲工輜重兵中小尉及下士
- 軍樂学生 地方一般志願者ヨリ採用スル者
- 講調学生 歩騎砲工輜重兵喇叭長
と記述されており、明治の大日本帝国陸軍草創期において早々に諸列強国の軍隊に並肩すべく、フランス軍将校を招聘して、陸軍各隊の中核を為す将校等を召集し統一した軍事教育を行い、これら将校等が修得した軍事を原隊に譜伝することにより、全軍の斉一した進歩を図る目的で明治六年に陸軍戸山学校が創設されたもので、昭和20年の第二次世界大戦終結とともに閉校された。
3 軍刀操法
大日本帝国陸軍における歩兵戦技の研究と教官養成は、主として陸軍戸山学校の体育科において行われていたが、当初より白兵戦技術の指導はフランス陸軍式であったため、サーベル様式の片手斬撃が主流であった。しかしながら、日清、日露戦争の白兵戦を経験して、日本刀に対する信頼性が高まり、更に精神的な拠り所にもなっていった。二つの戦争を経て大日本帝国陸軍は世界の列強各国に並肩するように至るとともに、サーベルも片手把持様式から両手把持様式に変化していった。このような状況下、大正時代に陸軍戸山学校では、日本古来の日本刀を使用した剣術の中から日本独自の軍刀術を新たに制定するため、中山博道、国井善弥等の様々な武道家を招聘し軍刀術の研究を進めた。
大正14年、陸軍戸山学校剣術科長の森永清中佐は、中山博道が近代戦に適合させる為に居合から考案した5本の立ち技の形を採用したが、この時点では陸軍戸山学校内での研究に留まり、全陸軍への教範の配布等には至らなかった。しかし、昭和9年に大日本帝国陸軍は、従来のサーベル様式から日本古来の太刀型を94式制式士官軍刀として制定するに至り、日本刀様式の軍刀が誕生した。これらの情勢を踏まえ、昭和15年に陸軍戸山学校では嘱託の剣道範士であった持田盛二、斎村五郎の協力により技の追加と改定を行い7本の立ち技を制定し、同年11月に陸軍将校の親睦団体であった偕行社から小冊子「偕行社記事 昭和十五年十一月號 附録『軍刀の操法及試斬』」が全陸軍将校に配布され、漸く陸軍戸山学校で制定された軍刀操法が大日本帝国陸軍に周知された。また、昭和17年1月には『短期速成教育軍刀(一撃必殺)訓練要領』が発刊され、更に、昭和19年3月には、 「短期速成教育軍刀(一撃必殺)訓練要領」を「軍刀操法其の一」とし、従来の「軍刀の操法」を「軍刀の操法其の二」に改め、両者を合冊し若干の修正を加えた『軍刀の操法及試斬』を陸軍戸山学校で編纂し国防武道協會から発行している。
2011年記
全日本戸山流居合道連盟で継承する"軍刀操法""戸山流の形""戸山流・組太刀の形"の解説書が以下のpdfに記されています。全日本戸山流居合道連盟講習会での活用や、日常の稽古に役立ててください(pdf閲覧にはパスワードが必要)2014年9月にアップデート。
- 軍刀操法
- Gunto Soho
- 戸山流軍刀操法(旧軍の形)は陸軍戸山学校で居合から考案した立ち技を採用し、制定された"形"で、全日本居合道連盟はこれを継承している。この資料は1940年、1942年及び1944年に刊行された資料を参考に、それらの原文に忠実に作成された。*2014年(平成26年7月)に詳細な動作を理解しやすくする為に「軍刀の操法及試斬」に掲載されている写真に付記されている一部の説明文を加えた。