機関紙[newspaper]

機関紙 第九号

   

1.ご挨拶 ・・・・・・・・・・ 籏谷 嘉辰

写真:籏谷 嘉辰

 令和4年の機関誌を発行するにあたり一言ご挨拶をいたします。

 コロナ騒ぎが始まって三年目に突入いたしました。

 この二年間は 体育館使用は全て駄目。人が集まり密になるのは禁止。飲食店もデパートその他商業施設は時間短縮の 連続。戦後始まって以来の社会的危機が未だ進行しております。

 その中で我々はいかに武道を通じて社会を正常な世界に戻していくかの課題が課せられました。自前の道場を持って居る人は許す限り少しでも沢山の人に稽古をしてもらう。その中で少しでも技を向上させる。人にコロナをうつすことを、うつされることを必要以上に怖がらないでやるべき努力は全てやり、稽古を重ねる事しか有りません。内に閉じ籠らないで見えない先に希望を持ち前進有るのみです。

 町田支部の河野裕一氏が12月末に亡くなりました。膵臓癌でした。河野氏は全盲でした。60歳頃から抜刀を始められ町田道場に通い始めて十年間に六段斬りを習得され二段まで進まれました。

 まさか全盲の方が六段斬りを披露するなんて誰も思わず、靖国神社、大国魂神社、全米抜刀道大会、(フロリダ)香港国際大会、全日本戸山流全国大会、等々で演武を披露する度に沢山の方を感動させ演武が終わると沢山の拍手で見送られました。自分の努力の足りなさの言い訳を年配の方は年のせいにし、若い人は仕事のせいにししてきました。しかし還暦を過ぎ、かつ全盲の河野さんの演武を見て努力の足りなさを解らせてくれました。

 河野さんは武道を通じて若い人達に努力の大切さを教えてくれました。享年七十歳 ご冥福をお祈りいたします。

                                                      合掌

   

2.令和三年 活動報告

  • 1月31日 総会・第1回講習会・昇段審査(町田)
  • 2月    講習会、昇段審査(米国NY,FL)中止
  • 4月5日  靖国神社奉納演武
  • 4月12日 第2回 講習会、昇段審査(町田)
  • 5月23日 第44回全日本戸山流居合道連盟全国 中止
  • 5月31日 大国魂神社奉納演武 中止
  • 6月12日~14日 第44回全日本戸山流居合道連盟大会 香港 開催中止
  • 8月    講習会、昇段審査(北京)中止
  • 9月11日 第3回講習会、昇段審査、撃剣講習会(町田)
  • 10月4日 赤城神社奉納演武 中止
  • 10月25日 町田時代祭 中止
  • 11月  大会・講習会・昇段審査(香港) 中止
  • 11月28日 理事幹事会(町田)

   

3.平常心・・・・・・・日置 嘉龍

 先日、昇段審査で我門弟のAが数年ぶりで三段に合格した。このAは普段は五段でも通用する技前の持ち主なのだが、先生を前にすると体が言う事をきかなくなってしまう。誠斬会には、普段の稽古はすばらしい技を出すのに本番になるとそれを出せず、自爆してしまう。これでは宝の持ちぐされである。

写真:日置 嘉龍 写真:日置 嘉龍

 稽古は技を磨くだけではなく、人前でも平常心で演武ができる心を養わなければ、何の稽古なのか。それではただ巻ワラを斬って喜んでいる斬り屋である。私は最近インスタグラムを始めた。このインスタグラムには何十人の人が試し斬りの動画を載せているが九割がどうでも良い自己満足の斬りである。武道になっていない。良く恥ずかしくもなく掲載するものである。

写真:日置 嘉龍 写真:日置 嘉龍

 初段で基本の斬り方を会得し、二、三段技を会得し、四段以上でその技を磨き武道に昇華させる。これで始めて剣術を会得した事になるのである。どんなに遠い人の前でも平常心で演武ができる事こそが日頃の稽古である。ただワラを斬るだけの動画ならインスタグラムなんかに載せず、自分だけで喜んでいればいい。稽古着を着て刀を腰に差し斬り方の基本も知らずワラを斬り、それで武道家面をしている輩が多すぎる。

写真:日置 嘉龍

 世の中に戸山流を名乗る道場は山のごとくある。しかし中村泰三郎先生からご指導を受けた先生はいるのだろうか。戸山流を名乗れば居合い誠斬りの道場と勘違いしているのではないだろうか。中村先生や我誠斬会の籏谷先生のビデオを見て、もう少し勉強してほしいものだ。我戸山流誠斬会段位を持てば世界に通用する。只の斬り屋ではなく本物の武道家を目指して修業をしようではありませんか。我道場ではAをはじめ皆、剣術家になってきました。

   

4.靖國神社奉納演武ご報告・・・・・剣士 清水

 全日本戸山流居合道連盟は令和3年4月4日靖國神社能楽堂にて試斬演武を奉納致しました。新型コロナをかいくぐり、雨の空模様をはねのけ、今年最後の桜吹雪を浴びながら、義仙会様も加わり総勢23名全員が見事に二百四十六万柱の御霊に演武を捧げることができました事をご報告申し上げます。

写真:剣士 清水 写真:剣士 清水 写真:剣士 清水

 さて弊員、誠斬会に入門半年の73歳老人剣士です。当初の「試し斬り」を「奉納」する・・・という違和感は、「戸山流が靖國神社に」という流れで納得感となり戸惑いが消えました。この演武会の一員として、それも”露払い”で参加させていただき、一生の思い出ができました。写真にてご報告方々、個人的に感じたことを述べさせていただきます。

1.いざ出陣

写真:剣士 清水 写真:剣士 清水 写真:剣士 清水

 楽屋裏では新人がバタバタ、何せ羽織袴の着付けは練習不足、十文字にならない、襟がおかしい、羽織紐はどう結ぶの、陣笠紐とマスクはどちらが先?なんて。籏谷先生による羽織のたたみ方の指導あり・・・どこでも稽古、いつでも稽古。

2.武者行列

写真:剣士 清水 写真:剣士 清水

 靖國神社の由緒・ご祭神を知ってか知らずか、何組もの欧米系外国人家族がおり、目を丸くして武者行列を眺めていました。 彼らの目に我々はどう映っているのでしょうか。

3.演武奉納

写真:剣士 清水 写真:剣士 清水 写真:剣士 清水

 籏谷会長の四方で演武奉納開始

 弊員は、袈裟4回でしたが、「露払いプレッシャー」に負けずに落ち着いて集中できました。畳表巻の柔らかさか、先輩方からの直前徹底御指導か、はたまた老人の図々しさか。

 戸山流型・旧軍型、組太刀の型から鉄扇の型、横並び・太巻き・土壇、諸先輩方、誰一人として斬り損じることなく見事な技が次々と奉納されました。神も感じられたか、桜吹雪でお応えが!

 大先輩の熟練の技を見ながら、型、組太刀、試斬 三位一体で居合なんだろうな、居合は深く道のりは長そうだな、生涯稽古だろうが自分はあと何年居合ができるのだろうかなどと考えてしまいました。

4.義仙会

写真:剣士 清水 写真:剣士 清水

 技も装束も、立ち姿もまあなんと見事なことでしょう。2年前自堕落な生活をしていた弊員がふと立ち寄った”寺フェス”での日本刀体験会、人生で初めて日本刀を握らせてくれたのが長塚会長でした。「その振り方じゃ斬れないよ」の一言で弊員を居合の道に放り込んでくれました。恩人との再会でした。靖國の神に感謝。

5.めでたく奉納完了

写真:剣士 清水 写真:剣士 清水

 奉納演武は一瞬、しかしその準備は数カ月前にさかのぼり、佐藤会員の藁作り等、会員各員が各様に誠意をもって周到な準備をし、当日早朝からの搬入作業、演武中の諸作業から搬出作業迄、全会員一丸となって行動したことが今回の成功の原点であることは自明です。

 怪我なく、事故なく、全員斬り損じなく、大変立派な奉納ができた事をご報告申し上げます。

                                                          感謝

   

5.武士道と云うは死ぬ事と見つけたり・・・・キックボクシング世界チャンピオン 土屋 ジョー

 この世に生を受けて49年、キックボクシングの修行は現在まで31年間続けております。以前から武士道精神に興味があり、「武士道と言えば、剣術、茶道、書道、華道」ということで、剣術以外の、茶道、書道、華道(伝統三道)は、複数年修行してきました。

写真:土屋 ジョー 写真:土屋 ジョー 写真:土屋 ジョー

茶道                    自筆書道                  自作華道

 素手で戦うのが職業である、キックボクシングのプロとして、今までは、素手で戦わなければ卑怯だと決めつけていましたが、(ですが帯刀可能時代は、素手で喧嘩していると、「刀で斬り合うのが怖いから素手なのか?弱虫!」と言われたそうです)真剣日本刀での試し斬り体験に、東京町田の本部道場に行ったのが、2021年の5月でした。

写真:土屋 ジョー 写真:土屋 ジョー

真剣試し斬り                旗谷先生著 刃隠

 真剣試し斬り体験の後、籏谷先生と話した際に、「私は、実戦や敵との対戦に興味があるので、日本刀で実際に物を斬りに来ました」と、伝えたところ、「実戦なら、撃剣をやってみたらどうですか?」と言われたのです。試し斬りの稽古が終わった後に開催されている戸山流撃剣術の稽古に参加してみました。戸山流撃剣術で使う、練習用の刀の重さは936グラムですので、真剣と同等の重さにしてあります。戸山流撃剣術には、剣術の、虚と実の駆け引き、技、パワー、圧力、反射神経、等々、大事なものは沢山あります。

写真:土屋 ジョー

撃剣の稽古風景

 現在、戸山流撃剣術初段、戸山流居合道初段を頂きましたが、目標は、戸山流撃剣術全国大会の準決勝以上に進出し、真剣刃引きでの対決体験をする事です。(準決勝以上は、真剣刃引きでの試合となります)強くならなきゃ、準決勝には進出出来ません。(笑)型稽古は、日本刀操作を熟達させ、カッコ良い動きになれますし、

写真:土屋 ジョー

戸山流居合道型稽古

 試し斬りでは、スッキリ気分爽快になれますし、戸山流撃剣術では、真剣日本刀での対人戦を実体験できます。そして将来、旗谷先生と同じ歳(73歳)になった時でも、戦い続けていたいです。今後も旗谷先生の戸山流居合道、及び、戸山流撃剣術で、精進してゆく所存です。会員の皆さん方も撃剣稽古会に、是非戦いに来てください

   

6.2022年戸山流弓馬会の近況-・・・・・戸山流弓馬会 松下 陵

写真:松下 陵

 謹啓 新春の候、お慶び申し上げます。

 初めまして。戸山流弓馬会の松下陵と申します。入門3年目になります。コロナ禍の中、弓馬会は安全・衛生に配慮し、粛々と稽古に励んでおります。2021年度は2名の新会員と新たに創設した「弓術部」に3名の新会員を迎えました。さらに2台の「木馬」を製作し、稽古環境も充実を図っております。

 2022年の活動予定はコロナの感染状況次第ではありますが、「府中・大国魂神社での奉納神事」「八王子での流鏑馬大会」「群馬・赤城神社での奉納神事」「町田の時代祭り」の四行事が主となります。

写真:松下 陵

 2年ぶりの実施になりますが、いつも誠斬会や各会のみなさまのご協力を賜り、大変感謝しております。

 また、弓馬会の会員も抜刀の大会など機会があればお手伝いにお伺いして交流を深めたいと思っております。

 本年もなにとぞよろしくお願いいたします。

                                                           敬白

   

7.流鏑馬との出会い・・・・戸山流弓馬会 鈴木潤司

 私が流鏑馬に興味を持ちそして入門するきっかけとなったのが、とある偶然からでした。

写真:鈴木潤司 写真:鈴木潤司 写真:鈴木潤司

 遡ること約6年前の2015年5月、当時の会社の上司から来月6月に府中大國魂神社で流鏑馬や武者行列のイベントがある事を偶然聞く機会がありました。その際、上司から甲冑を着て武者行列に参加する予定なのだが甲冑は重いし暑いし正直着たくはないんだよねと笑いながら仰っておりました。小さい頃から歴史や甲冑が好きで、特に鎌倉~戦国時代の甲冑を着る事にとても憧れていたので武者行列に参加出来る事は夢のような話でした。そこで思い切って上司に自分が代わりに参加出来ないかとお願いしたところ快諾をいただいたのが流鏑馬を始める最初のきっかけでした。

写真:鈴木潤司

 そして待ちに待った本番当日を迎え武者行列も無事に終わり、メインの流鏑馬をスタッフ席側から見学、それぞれの射手の方々は緊張感漂う中、馬場で待機していました。その中でニコニコしながら楽しそうに騎乗されている一人の射手の方がとても印象的でした。大変気になり流鏑馬にも興味を持っていたので勇気をもって声を掛けてみることにしました。幸いにもお話する機会に恵まれて短い時間でしたが素人同然の自分の質問にも分かりやすく親切丁寧に応じていただいたのでとても勉強になり凄く嬉しかった事を今でも覚えています。その時はお名前が分からなかったのですが後日お調べしたところ、正にあの時の馬上の方が籏谷先生である事が分かった時は改めて感動いたしました!他で少しだけ乗馬を習っていましたが、すぐにでも籏谷先生の元で甲冑を着て流鏑馬をやってみたいとの強い思いから入門させていただき今日に至っております。

 先生方や先輩方一門の皆様との出会いとご縁に感謝し、このような素晴らしい機会を与えていただいた籏谷先生に心から深く感謝申し上げると共に今後とも御指導いただきたく何卒宜しくお願い申し上げます。

   

8.武学拾粹

槍長短損益之事

 槍は、直槍、鍵槍、鋼刃、片鎌、長刃、管槍などの種類があり、利害損益は各人の馴れによって選ぶべきである。しかしながら、その技に熟達していない者は、直槍にこしたことはないと言う。近世はもっぱら三角穂で長さ三寸を好むが、戦国のころは五寸七寸の穂を用いたのであるから、害はないと知るべきである。鞘は小振りにして、収めよいようにするべきである。革包みにするのがよい。内側に金箔をつけ、口にモグラの皮を張れば、真夏の日の暑さや雨露を通すことがない。戦場で鞘を落として困ったことなど言い伝えられている。本多忠勝は、一生涯、名槍蜻蛉切に油紙をかけておられたと、伝えられるけれども、抜群の技量の人のことなので、それを根拠にしがたい。鞘もあまり堅くさし入れたのは良くない。力を入れ一振りで抜ける程度にすべきである。

 天正年中、秀吉公が小田原攻のとき、城中から蒲生氏郷の陣へ夜討をかけたとき、佃又右衛門が真っ先に起き出し片籠手で出向いて、槍を幾度も振ったが鞘が抜けず、鞘のままで槍合わせをしたと言うことである。

 柄は十分吟味して、樫の木の筋の通ったのを選んで造るべきである。天草産の樫を最上とし日向、土佐のを次とする。その他の国々から産出された樫ははるかに劣る。近頃では槍の柄、ことのほか花奢になって、戦国のころの叩きふせ薙ぎ倒したことを忘れて、相手のすきをうかがって虚を突くのを表芸としている。その技に熟達した者は、それでも良いが、戦場は大混乱になるのだから、一人だけの業ではない。後に出す槍合の條を見るがよい。いかようにも丈夫に造るのにしくはない。しかしながら、自分の力量に釣り合わなければ、かえって害があると言う。往年の安永の初め、飛騨の国の農民が徒党を組んで強訴を企てたとき、郡上の兵卒が加勢して一ノ宮と言う所へ平定に発向した。百姓どもは一ノ宮の境内にたてこもって軍勢を防いだのを、郡上の物頭何某と言う者が、槍で二人突き倒したときに槍が折れた。その折れた槍で、また、一人突いたという。素肌の人を突いてもこの通りである。まして、甲冑に身を固めたものはなおさらである。これを心得て造るべきである。

 太刀打に笛巻、千段巻、筑紫巻など種々あるけれども、ただ、槍鍔のかき入れたのを、覆い固めるためであるので、鮫の塗込が一番よい。近世では、巻き目が高くならないように、下を削り落とした上に巻くので、かえって柄の弱点となり、巻かないのに劣る。承知して造るべきである。

 鮫具の多いのも益はない。二、三か所で十分である。

 槍印は一軍一隊の目印のためである。近世、鞘に付ける者もあるけれども、不研究のことである。もっとも鞘へ付けるのは働くため便利であるけれども、鞘は抜き捨てるのであるから、目印の甲斐はない。ただ太刀打の所にしっかりと結び付けておくべきである。

甲胄吟昧之事

 およそ甲冑は、矢石を防ぎ槍刀をさえぎり、臆病者も勇気を生じ、勇者は手柄を立てるための大事の武具であるから、よく選ばなければならない。呉子にも、鋭い武器、堅固な武具は人を勇ましく戦わせると言っている。すべて器械を製作するには、その情勢を察し、寸法や役割をはっきり確かめて、後、その損益を知るべきである。だから、甲冑の古今の変化のおおよそを、次に略記する。

 我が国で鎧や兜の始まりがいつであるかは、国史に記載がない。崇神天皇十年に、武埴安彦が反逆して滅ぼされたとき、討ち漏らされた者共は、皆、甲を脱いで逃げ去ったということが書いてある。それゆえに、それより以前に起源があるのであろう。何で造られていたのかを、うかがい知ることはできない。しかし、太古、藤威の品、皮威という物は、藤の皮、科の皮でもっておどしたと言い伝えているから、今の蝦夷人の甲[夷語にてヨケベという]のように、木の皮を編んだ物かも知れない。そのころは、刀剣、弓矢のでき具合も今のように鋭くなかったから、自然、木の皮でも防ぐことができたのであろう。それより後、皮革をもって造ることになったのである。淡路の廃帝(淳仁天皇)のとき、天平宝字六年、太宰府で綿襖冑を製作させたなどと言うのは、どんな造り方だったのだろうか。

 革甲は今で言う本揺札[または本小札]であって、縦横の屈伸がいたって便利であるとは言っても、弓矢が盛んに使われるようになっては不利であるので、筒丸型に変化した。今の具足と昔の鎧との中間とも言うべき物である。胴を囲んで竹の筒に似ているので名付けられたと言う。脇楯なら草摺が八枚ある。鍛革あり、鉄札あり、革と鉄とを交互にした物もある。それを略した物が大荒目である。小札を荒くし、毛引を素懸にしたものである。それでもまだ矢や石を防ぐに十分でないとして、金物の胴が工夫された。桶・箇・輪・仏胴・仁王・鳩胸・蝦胴の類である。槍が盛んになり、いよいよ小札は不利であるとして用いる人が少なくなり、まして鉄砲が伝来してから後は、益々、鎧兜の損益の判断がむつかしく、仏胴・蝦胴等がよろしいとなって、もっぱら用いられた。明珍信家などが工夫をつくしたが、特別に新しい様式もなくて、ただ、楯無し形を第一だとして、流布しているうちに、天下太平の世となった。

 最近、鉄砲の技術が、益々精巧になるにつけて、これを防ぐための手段を研究して工夫すべきところを、太平に馴れて戦乱を忘れ、甲冑などまったく儀式に使う飾り物のごとく思い、下着、小袴、家地の類いはことごとく金入り緞子の類でこしらえ、滅金銀鉸具威毛などの好みを表に出し、下鉄の善し悪しを吟味する者はいない。ただ職人や商人と相談して価格の高下をもって、甲冑の高下と思うのは、武備を忘れたのではないか。

 私が考えるのに、最近は装飾を第一とするから、当世小札を所持している者が多い。甲冑のうちで、これほど損多く利少ないものはない。本小札がすたれて久しいので、現存する物はきわめて少ない。少ないから価格もまた高い。そこで、鉄札を糸で綴り、外見が本小札に似ているだけで、利害は大変な差がある。まず、本小札は革でもって製作するので、しなやかで身体の屈伸に便利である。矢や石を防ぐには利が少ないけれども、それでもすこぶる堅固である。しかし、威毛が雨露にぬれ、川越しのときに水がしみるなどして乾きにくく、重くなり、また、毛引が矢をさまたげたり、太刀を振るうときのさまたげとなるなどの害があるから、前を革包にする、これを弦走りと言う[弓の糸が小札にかかり、内側からさまたげになるのを防ぐためである。鎧、胴丸に多い]。また、革札、鉄札を交互に綴った物もあるが、一害一利の理由で、すこぶる身体の屈伸には不利であろう。今の小札は薄い鉄に穴を多くあけ、漆で塗り上げてあるので、矢玉はいうまでもなく、槍や太刀にもたえられない。また屈伸も自由でない。ただ、軽いのと金物と毛引が美々しいまでのことである。軽いのは有利のようであるが、大雨や川越しにぬれるとき、重くなる。ただ、見た目の美しさだけというのは、滅びる兆しの鎧と言うべきである。

 また、職人の悪賢い奴は古い具足や焼け具足を集め、または、生鉄を伸ばし取り合わせて、高額の金銭を取る。下地鉄の価格は、わずか二、三十分の一にもおよばないと言う。価の高下するのは、ただ、うわべの飾りだけである。そういう連中の中でも、少しは甲冑を吟味するものがあると言っても、古い記録にこだわり、時代の進歩を知らず、屈伸の便利な物を着試して、本小札産札の類を好み、はなはだしい者は、鉄砲はとても甲冑などで防ぐことはできない、試してみるのは臆病と言うものだ。試してみようと思うならば、弓で射るか、短刀で突いて試すべし、などと言う。太平の世であるから、現実の可否を知ることがむつかしく、着心地の良いのをよろしいと思う者が多い。甲冑の本質を忘れ、志士たる者、その身を全うして成功することを思わない。そもそも甲冑は、人の目を驚かすための物ではない。屈伸の具合の良いのを望むなら、畳具足や鎖腹巻の類の方が本小札にどのくらい勝るか知れたものではない。畳具足、鎖腹巻もまた、素肌には遠くおよばない。素肌を用いず甲冑を用いるのは、身体の守りを堅くして、敵を討つためではなかろうか。身体をかためようとして「試し札」を笑うのは、人を斬ることを望んで鋭利な刀を捨て、鈍刀を用いるようなものである。鉄砲がいかに鋭利であるからと言って、どうして心をつくして、これを防ぐことを求めないのであろうか。心を用い、方法をつくしてなお、討死するのは天命である。心を用いず手段方法をつくさないで無防備で、天命だと言って鋭利な武器に命をまかせるのは自暴自棄の極であろう。武士は身体を全うして、功名を後代に現すのを忠孝の道と言うのだ。すべて武器武具は、その構造と時代の進展を見通した上で、用法の利害を知るべきである。

 鉄砲を防ぐには、小札の類では流れ矢でも防ぎにくい。堅矧、横矧の金胴は丈夫であるけれども、鉛の弾丸が当たる所が堅ければ、弾丸の先が平になって一、二寸すべるものであるから、そこを打ち抜かれなくても、鋲が抜け、綴り糸がゆるみ、そこへもぐるであろう。鳩胸胴や仏胴が最上の物であるけれども、一枚の板鉄が大きいから、上手な出来あがりならよろしいけれども、下手な出来だと、槌の打ちむらがあって鍛え割れの疵ができて、丈夫ではない。鍛え割れがなければ、鉄砲を防ぐのには、これらの胴にまさる物はない。その次は四か所を蝶番でしめた五枚物の金胴がよい[この形を楯無形とふつうは称する、源氏伝来の八領の鎧の中の楯無形とは、形も造りもおおいに異なる。世に言う楯無形は、その種類はきわめて多く。一定ではない。背板のシ立てにした物もあるが、これはよろしくない]。上下を前後共にアガキにするから、屈伸が自由にできない。一枚の板鉄が大きくないので、鍛え割れもできず、鉛の弾丸がくぐり込むすきまも少ないから、防具としてたいへんによい。はげしい戦争に、もっぱら好まれるものである。

 甲冑の下地・表は鋼鉄を用い、裏は柔鉄や古い鋼鉄を用いる。もっとも、死生を決断する戦場で着用して、矢や弾丸を防ぎ身命を全うして、ついに功名をあげるのも、この防具によるものである。よって、鍛えのよい鉄を用いて、腕のよい職人を選んで造らせるべきである。余裕のある武士は、上べの飾りを省略して、その費用をよく鍛練された鉄に向けるべきである。

兜之事

 兜は少し大ぶりであるのがよろしい。鉢巻をして被らなければ着心地が悪い。鉢巻をすると具合がよい。長い陣中生活でも頭痛がしない。また、兜を強く打たれても、頭に響くことがない。せまい兜は気がつまって具合が悪いと言う。兜の形は種々あるけれども、頭形作、形筋冑、椎形、雑賀鉢等が使い勝手がよい。桃形、鳥兜など、本人の好みで選べばよい。六具足の内で、兜や類当は古作を選ぶべきである。古作は重いけれども疲れないのは、釣り合いがよく、肥満や痩身それぞれに応じて、当たる所もないからである。

 あるいは兜に五枚兜とか三枚鉢と言うのは、鉢を地金三枚で張ったのを三枚鉢、五枚で張ったのを五枚鉢と言うので、錏の数で以上のように称するのは誤りであると言う。

 しかしながら、鉢鉄は五枚三枚をもって張ると限定されるものではない。あるいは八枚九枚、または、十数枚で造られた物も多い。七枚兜、十枚兜ということは、昔も今も聞かないから、鎧をさして五枚兜とか三枚兜と呼ばれることは明白である。

 すべて新作も古作も共に、漆で塗り上げるべきである。塗らないときは、雨露に会って錆が出るものである。古作は錆は出ないけれども炎天で太陽の熱を通して具合が悪いから、塗り上げて用いるべきである。眉廂は日影をおおい、雨露を防ぎ、矢や弾丸、槍、刀を避けるためである。多く出過ぎるときは、視界をさまたげ、少ないときは矢や弾丸を避けるのに不都合でその中間を用いるのがよい。なお、戦闘中は顎を引き下向きにすべきである。

 浮張は縮緬や麻布の類を百重刺しにして、紺か紅に染めるとよい。力革は浮張より少したわめて十文字に入れておくべきである。忍ノ緒[本名 冑緒]をつける所を力金、根緒などと言う。三か所でも四か所でもよいが、五か所はわずらわしくてよくない。忍ノ緒は鼓の調糸、または、唐木綿、麻布などを繰りくけしたのがよい。あまり細いときは決拾をかけ、からみにくいから適当にすべきである。長さについては定めはない。結び余りは四、五寸ほど残すようにすべきである。

 錏は中饅頭や越中錏などがよい。毛引より素懸にすべきである。日根野錏がもっとも利用しやすいであろう。

   

9.日本の剣術

 日本の剣術は平安時代から遡るので一口には中々話せないが剣術は二通りを教えていたことは間違いない。1つは甲冑を着用した時の戦い方。戦のない時は平服で居るので普通の戦い方を並行して伝授したと思われる。刀の長さも平服の時は甲冑着用の時より短くなり、反りも浅くなった。平安時代の剣術は西国は京8流、東国は東国7流と言われている。

 1)京八流は古くは鬼一法眼なるものが京の鞍馬山の8人の僧に伝えたと言われている京八流。源義経に鞍馬山で稽古をつけたと言われている。南北朝末期、京今出川辺りで吉岡憲法によって兵法所が開かれたちまち繁盛したと云う。代々憲法を名乗る。足利十五代将軍義昭の指南役を務める(永禄頃)武蔵に敗れるのは吉岡十六代である。

 2)東国7流は香取神社、鹿島神社の社人7人に伝わったとされる。平安時代の古より関東地方の若者は使役として京都の貴人の屋敷を警護することが義務で、若者を招集して、鹿島、香取神社に集められて香取、鹿島神社の社人が剣術の稽古をつけたのである。大体、基本を伝授ののち、京に上る時に数十人を集めて両神社から送り出した。今でも旅に出ることを 鹿島立ちと言われている。武道場に神棚があり香取、鹿島神社のお札をお供えするのが習慣になっているのはそのためである。

 3)兵法四大源流  江戸時代の剣術は大体この流派を基にしている。

   神道流   陰流   念流   中条流

 4)慈恩(色々な説があり定かではないがまとめると)南北朝の頃奥州相馬の住人、相馬四朗義元という武士がいた。6歳の時父が殺害されたため乳母に抱かれて武蔵国今宿に隠れた。相州藤沢の遊行上人の弟子になり念阿彌と名乗る。10歳の時京に上り鞍馬山で修行中に京八流の剣術を習う。(一説には異国人より習うとある。)還俗して親の敵を討ち再び仏門に入る。鎌倉の寿福寺にて念大和尚と名乗る。晩年信濃国下伊那郡浪合にて長福寺を立てる。別名慈恩。

 5)全国を修行中の中条兵庫頭長秀(足利幕府で地頭職)が鎌倉に立ち寄った時、慈恩に出会い剣の技を習い中条流を名乗る、中条流は越前朝倉氏が庇護、朝倉家中に流行る。 のち富田勢源(弟子に佐々木小次郎がいる。)が出現し中条流中興の祖と言われている。中条流が富田流と呼ばれたのち鐘捲自斎、伊藤一刀斎、と続き一刀流を名乗り小野次郎右衛門忠明(御子神典膳)と続く。富田勢源は朝倉氏に仕えるも朝倉氏滅亡後、前田家に仕える。

 6)同じ慈恩和尚に習ったのが念流を起こした樋口家11代兼重である。念流は慈恩が興したと云う説があるが慈恩は中条長秀にも剣技を授けているので慈恩が信濃国浪合長福寺の時の弟子、樋口兼重が念流を興したと見るのが自然である。一説には慈恩の弟、慈三が念流2代を継ぐ。7代目の長友氏宗偽庵(眼医者)より樋口定次(17代)が念流を伝授され馬庭念流を興すとある。

 7)飯篠長威斎家直  南北朝後期(嘉慶)1387年に飯篠長威斎という人物が現れ天真正伝香取神道流を名乗る。長寿で102歳まで長生きをしたと云う。長享元年(1487年)没。足利将軍のもとへ出仕していたが60歳を超えたのち帰郷して香取神道流を興す。天下には「しんとうりゅう」で通った。香取、鹿島神社の社人達が流布され近国、遠国を問わず広まり飯篠道場は兵法のメッカとなった。数代後の弟子に、松本備前守、諸岡一羽、斉藤伝鬼坊、有馬大和守、等のちに一流一派を生み出す名人が輩出する。

 8)上泉伊勢守秀綱は永正5年上野国上泉城主、上泉義綱の次男として生まれる。兄が夭折したので21歳で上泉家を継ぐ。祖父、父、とも剣術の名人と言われている。祖父時秀の代から伊勢の名家、愛洲威香斎が稽古をつけに出入りをしており亨禄4年(23歳)秀綱に陰流を伝授した。その頃すでに香取、鹿島、関東7流を納めていたにもかかわらず、のちに陰流ありて、その他は数えるに勝えず(たえず)とまで言い切っている。天文5年(28歳)新陰流を名乗る。48歳の時、北条氏直の軍門に下り、後、上杉謙信配下、長野業正、後、武田信玄に召し抱えられる。永禄6年(55歳)自分には愛洲陰流を探求、工夫する使命がある、どこにも仕官はしないと言い信玄公より離れる。その時信玄の信の字を賜り信綱と改める。上泉伊勢守信綱はここから始まる。高弟に疋田文五郎、神後伊豆などが居る。その後伊勢の国司北畠具教を訪ね柳生但馬守宗厳、奈良宝蔵院、覚禅坊胤栄らと交わる。その後新陰流を伝授する。 柳生但馬守は将軍家指南となり、覚禅坊胤栄は宝蔵院流槍術を興す。後に羽賀義久(羽賀井流)、土屋将監(心陰流)、丸目蔵人(タイ捨流)、上泉秀胤(上泉流軍法)、上泉憲元(会津一刀流)、松田清栄(松田派新陰流)、奥山公重(神陰流)、野中新蔵成常(新神陰流)、原沢左衛門(野田神陰流)、駒川太郎左衛門国(吉駒川改心流)、狭川甲斐守助直(狭川派新陰流)等が輩出している

 9)居合術として林崎流  よく、居合と剣術はどう違うのですか?という質問を受けるので簡単に説明をすると、刀が鞘に入っているときに抜き付けと云って攻撃を仕掛けるのが居合。刀を抜いて攻撃するのが剣術。江戸時代の剣客は居合、剣術、両方できて一人前である。修行を終え独立しようという時、剣術を表看板にするか、居合を表看板にするか、迷ったと云う。剣術家は剣術だけとか居合だけなどと、云うことは無い。林崎甚助は居合の元祖と云われている。天文14年生まれ。名は民治丸。出羽楯岡の生まれ。6歳の時、父、浅野数馬が坂上主膳に親を殺され、親の仇を討つべき修行に励む。永禄6年甚助(17歳前後)近江国瀬田唐橋付近で伊勢守信綱に勝負を挑んでいる。甚助、長巻野太刀抜き付けの一刀をかわし、これを取り押さえられ悔しさの余り我の首を刎ねよと叫ぶが、誠に惜しき若者よと居合の理と柄の理を甚助に授けた。柄の大事には甚助の柄は長すぎて打ち物上手には役に立たずとその理を伝う。伊勢守信綱、数年後に甚助の活躍を聞く。長柄の大事は飯篠長威斎家直により考案され松本備前守の工夫により完成され塚原卜伝、上泉伊勢守達により広く世に伝えられてことを忘れてはならない。門人に田宮平兵衛重正。(門人に関口流の祖関口天衛門氏心)片山備前守久安。(関白秀次の師)長野無楽斎惟露(無楽流の祖)田宮流は紀州徳川家に伝え片山伯耆守久安は関白秀次の師範として名を高め甚助の門流からは後世幾多の名人が出た為、いやが上でも流祖としての名声が高まったと云っても過言では無い。