■ 目次
4.日本戸山流居合道を習い始めて1年経って・・・・・吉井 柾史
6.コロナ自粛下における過ごし方工夫 -視点操作法によるメンタルトレーニング-・・・・・大谷 正道
1.ご挨拶 ・・・・・・・・・・ 籏谷 嘉辰
令和2年はコロナ騒ぎで国難の年でした。
密を避けて人は集まらないようにと、お国の要請で居合、剣道、柔道、流鏑馬、お祭り等の大会、イベントはすべて中止になりました。我慢の一年間でした。
我が戸山流も国内外の交流試合、奉納演武、全国大会、昇段審査、全て中止となりました。そんな中でも全国の支部員はコツコツと練習を重ね何時、何が有っても困らないように努力をして来ました。又、海外支部員も動画を撮り何時でも試合に参加すると稽古風景を送ってきていま居ます。
我々はコロナに負けていません。
一所懸命稽古を積み重ね免疫力を高めコロナに負けない体を作り世界に発信していこうではありませんか。今年は全国大会で皆様方との再開を楽しみにしてご挨拶といたします。
2.令和2年 活動報告
- 1月26日 総会・第1回講習会・昇段審査(町田)
- 2月26日~3月3日 NY・FL講習会・昇段審査
- 4月5日 靖国神社奉納演武中止
- 4月12日 第2回講習会・昇段審査(町田)中止
- 5月17日~18日 第2回講習会・昇段審査(町田)
- 5月31日 大国魂神社奉納演武中止
- 6月12日~14日 第44回全日本戸山流居合道連盟全国大会(町田)中止
- 8月 講習会・昇段審査(北京)中止
- 9月13日 第3回講習会・昇段審査・撃剣講習会(町田)中止
- 9月20日 臨時昇段審査(町田)
- 10月4日 赤城神社奉納演武中止
- 10月25日 町田時代祭り中止
- 11月29日 理事幹事会(町田)香港大会・講習会・昇段審査(中止)
- 12月1日 香港大会・講習会・昇段審査(中止)
3.アメリカ講習会・・・・・・・日置 嘉龍
四十年ぶりのニューヨーク。ハワイをふくめアメリカには何十回も来ているのにニューヨークは二度目である。
ホテルはニューヨークヒルトンである。しかしあのヒルトンではなくヒルトンイン。
マンハッタンへ一時間の郊外である。
JFK国際空港からマーキークリハラの自宅へ。ニューヨークとは思えない緑に囲まれた住み易そうな住宅街だ。一休みして、昼食へ玄関を出るとなんと鹿のつがいが歩いているではないか。感動しながらレストランへ。大きな川の側にあるレストランだ。するとマーキーがこの場所は飛行機が着水した、ハドソン川の奇跡の場所だと教わる。
夜には講習会の道場へ。二度三度行ったぐらいでは行けない様な、ビル街の一角の一軒だけ電気のついている建物に車が止った。何人か人が出て来て荷物を運び込んでくれる。三~四十人程の人達の挨拶を受け講習会が始まる。八時にスタートして終ったのは、午前一時半。それからピザとビールでウェルカムパーティの様な食事会が始まる。
翌日は買物に街へ出てソウルフードを食べた。そして夜は講習会。二度目は三時間で終り、クラブの様なレストランへ行きステーキを食べる。私は日本の霜降りの肉よりアメリカの赤身肉の方が好きだ。翌日はフロリダだ。 マイクソレイに、順子夫妻の出迎えを受け、ソレイロ邸へ、日本で言えば別荘地だ。ソレイロ邸は六部屋リビングダイニングは二十畳ありプール、ガレージは大型ピックアップトラック、ベンツ、ハーレーダビッドソンが鎮座している。少し休憩し車に乗り込む。十分程走り近くの牧場に着く。そこでガンシューティングを体験する。先生のワルサーやルガー、カウボーイのコルト、ウィンチェスター、ミリタリーのマシンガンと日本では絶対持つ事のできない銃で心ゆくまで堪能する。
夜はフロリダのおもだった人達が集まり食事会。翌日車で一時間程の所の倉庫街のボブエルダーの道場に着く。ここの回りは一人では歩けない危険な所で私は何となくワクワクする。二日間この道場で講習会、昇級試験を行なった。
翌日空港へ向う。飛行機に乗り込み離陸を待つがなかなか離陸しない。飛び立ったのは二時間後だった。シカゴでは我々の乗る飛行機は飛んでしまった。 シカゴに着くと係員が待っていてロスアンゼルスへ飛びそこから日本へ向う様に言われる。日本までは二十三時間かかってしまった。又、次に行くのが楽しみだ。
4.日本戸山流居合道を習い始めて1年経って・・・・・吉井 柾史
居合道の稽古を習い始めて1年と2か月になります。あっという間に時間が過ぎたように感じます。現在はヘリコプター操縦士の職を探しつつ居合道の稽古を続けています。学生時代は航空機に関わる仕事に就くことばかり考えていましたが、「まだ若いうちに色んなことに挑戦してみよう。」と思い、就職して暫く経った頃、子供の頃からの夢である「居合道をやる。」という夢を思い切って実現することにしました。 初めて居合道の稽古をした時は、素振りの練習についていくだけでも精一杯でした。日本刀がとにかく重く感じました。素振りの1振りだけでも必死でした。
巻き藁も思うように斬ることができませんでした。実際に巻き藁を斬ることが実は大変難しいことだと初めて実感しました。何度も刀を振って偶然斬れれば良いくらいでした。「居合をやっている人たちは、こんなに重い刀を自在に扱いっているのか。」と驚いたものです。稽古翌日は全身筋肉痛になる始末です。学生時代に運動部での活動経験すらない身だったので尚更体に負担がかかったものです。それでも初めて居合道の稽古を受けた感想は、純粋に楽しかったの一言に尽きます。
そんな私も居合道を習い始めて1年と2か月、今になってようやく袈裟斬りが少し様になってきたように思います。まだまだ一人前の剣士になるまで学ぶこと、やらなければならないことは山ほどありますが、少しずつ確実に成長していると自信を持てるようになりました。私の成長に期待してくれている方々の期待に応えるためにも、これからも粘り強く精進していきたいと思います。
5.コロナ下でマスク付けて稽古しています・・・・浅海 修
昨年2月7日に新型コロナに関する緊急事態宣言が出されました。スポーツジムや学習塾などに対しても休業要請があり、人と人との接触を70%できれば80%減らして欲しいとの事でしたので、鎌倉支部では宣言期間中の稽古の全面休止を決めました。
稽古を休止するにあたっては、道場や輸出用藁のコンテナ倉庫に古ゴザを搬入している町田、相模原、座間各市の畳屋に搬入停止の連絡を行ないました。他にも既に漬込んでしまった藁をどうするか?本部に納めている道場使用料をどうするか?などいろいろな問題がありました。稽古の休止でさえそうなのですから、世の中て業務の停止をしなければならなかった人達はさぞかし大変な事だったろうと思います。休止期間中に鎌倉支部のLINEグループを立ち上げ宣言明けの稽古の準備のための情報交換を始めました。 5月25日に宣言が解除されましたが、Withコロナの生活が要求されたため鎌倉支部では、稽古中のマスク着用、入室時の手の消毒、道場の換気など13項目の感染防止対策をまとめ、稽古を再開しました。それまでは消毒用アルコール、マスクなど入手困難でしたが、この頃からは他の感染対策グッズも含めて何とか入手できる様になっていました。
年末から感染者がまた急増する中、明けて1月8日には二度目の緊急事態宣言が出されました。しかし今回の宣言に伴う要請事項は飲食店あるいは午後8時以降の営業に関する事が中心で、稽古を休止すべき内容は含まれていないと判断し鎌倉支部は自主稽古として稽古を継続する事にしました。 さいわい今のところ一人の感染者も出さずに稽古を続けています。
6.コロナ自粛下における過ごし方工夫
-視点操作法によるメンタルトレーニング-・・・・・大谷 正道
今春のコロナ感染拡大に伴う自粛期間中、出勤制限や自宅待機を強いられ、また、長期のテレワーク勤務など普段の生活が大きく変化しました。この間、働き方や余暇の過ごし方が見直され、新たな趣味や今迄出来なかった事に取組んだ人も多く居たと思います。しかし、余暇があるからと言って直ちに趣味などのやることが見つからない人も居たことと思います。そのような人は心的ストレスを感じ、精神疾患等を発症する危険性もあります。 そこで、このような人のストレス防止・解消法として「視点操作法(いいところ探し)」という訓練を紹介します。この訓練は、陸上自衛隊が心理訓練の一つとして取り入れた実績もあります。
訓練の内容は、普段目にしている周りの中で良いところを多く見つけるといった単純なものです。例えば、道を歩いていて、「太陽が輝いてきれいだな」とか「道が真っ直ぐでいいな」とか「街灯が丸くて格好いいな」といったように何でも良いのです。綺麗なもの、面白いもの、心地よいもの、感心できるものなど、とにかく気付くものを多く発見します。しかもできるだけ短時間に多く見つける(1分間で20個以上が目標)ようにトレーニングを行います。
これにより、とかくネガティブ発想になりがちな人間に対しポジティブ発想を行うように習慣づけていくことにつながり、ストレスに強い心を作る効果を生むのです。この視点操作法トレーニング、試してみてはいかがでしょう。普段から何気ないものにも良いところがある。悪しき事物にも人にも良いところがある。常日頃から良いところを見つけられる明るい発想に心がけたいものです。
7.初の武者修行・・・・戸山流弓馬会 本田高義
戸山流流鏑馬の射手を始めて、数年が経ちました。昨年11月には、北海道函館の牧場に、初野目武者修行に行かせて頂きました。当弓馬会会長籏谷先生の御尽力により、先生他5人の会員は、無事修行を終えることが出来た事を感謝しております。
私は、当会の馬以外での流鏑馬の稽古は初めてであり、三的の走路も初体験でありました。私が乗った馬は、『外乗の際はとてもおとなしい性格ですが、流鏑馬の走路に入った途端にやる気を出す』と聞いていました。緊張しながら馬場上に向かい、順番を待っていると、私は馬のやる気を抑えることが出来ず、走り出してしまいました。数回の稽古をしましたが、無我夢中で稽古を終えてしまいました。
籏谷先生から、『初めて違う場所で、違う馬に乗り稽古する、これが武者修行です。』と、有難いお言葉を頂きました。翌日の外乗でも、同じ馬にのりましたが、牧場の方から言われたように、おとなしく外乗を終えることが出来ました。今回の武者修行で、改めて流鏑馬の難しさを知り、自分の未熟さを痛感する旅途端なりました。今後も、先生方の教えを守り、稽古に精進して参ります。
8.2020戸山流弓馬会女子部合宿報告・・・・・佐藤里香辰美
戸山流弓馬会女子部では、毎年在来馬を訪ねる旅として合宿を行ってきました。今までに北海道和種馬道産子(北海道)・木曽馬(長野県木曽地域・岐阜県飛騨地方)・与那国馬(沖縄県与那国島)・御崎馬(宮崎県都井岬)・野間馬(愛媛県今治市)。昨年は対馬に対州馬 (長崎県対馬)を訪ね、残すところトカラ馬(鹿児島県トカラ列島)と 宮古馬(沖縄県宮古島)の2種になりました。
今年は宮古馬を訪ねる予定でしたが、コロナ騒ぎで叶いませんでしたので在来馬を訪ねる旅は一時お休みで、代わりに10月25・26日の一泊で長野県長門牧場のモンゴル乗馬ノーサイドにてモンゴル鞍にての外乗を楽しみました。私が乗ったのは1991年生まれの29歳になる現役バリバリおじいちゃんのりょう君。よく走る真面目なベテラン馬でした。いろいろな馬に乗れる事も合宿の楽しみです。お天気も良く広い草原での外乗は気分爽快でモンゴルの大草原を思わせる様でした。流鏑馬ではいつもは和鞍に乗っていますがモンゴル鞍は初めての経験で思いのほか乗り心地が良く、長く乗っていても疲れませんでした。モンゴルの子供たちは馬上で育つと言われるそうですが、少し羨ましくもありました。
翌日は武田神社と恵林寺にて甲斐の歴史に触れました。うぐいす廊下を歩いたり、日本庭園を鑑賞するなどして非日常を満喫いたしました。食のお楽しみは初日の信州そばにはじまりました。自家栽培・自家製粉の焼きたて打ちたて茹でたての天ざるとビールに始まり、牧場ノーサイドでは柿、シャインマスカット、ロールケーキ、ソフトクリームのデザート三昧。〆は勝沼ぶどうの丘にてワインとビーフシチュー を頂きました。大満足の合宿となりました。コロナ騒ぎで全ての流鏑馬行事が中止になりましたが、稽古は淡々とこなして、来年につなげて行きたいと思います。
9.武学拾粹
刀劔吟味之事
そもそも刀剣は、武士に欠くことのできない道具で、これに命をかける器であるから、太平の世と言っても、第一に吟味して腰にさすべきものである。それを近頃は太平のおかげを受けて、ただ鞆[本字は欛と書く、今は俗字に従う]鞘などの立派なことを先にして、内味の刃に気を配る者も、ただ剣相を見る者に任せきりで、札、折紙の価の高下や、作品の真偽の掘り下げにだけこだわって、実戦の用を心掛ける者が少ない。
もっとも相剣は、花園院の御代、相模国鎌倉の住人五郎入道正宗を始まりとして、折紙は足利殿の末期になって、本阿弥家に始まった。その由来は正しくて、子孫は今にいたるまで代々、もっぱら鑑定を職務として、真偽を判定し、品位を格付けすること、まるで掌をさすように明確である。とは言っても、ただこれだけで是非を判断して、自分で切れ味を試さないので、実戦の用に対する心掛けがうすいと言える。だから切れ味を試して腰にさすべきである。
昔は刀工を九段の位に分け、あるいはきわめて良く切れる物を「注進物」「しかるべき物」などと言った。皆、東山殿の時代の称号で、現在にいたっては、多くの年月を経ているので、たびたび合戦に使われ、いくたびも研がれ、刀稜[俗に鎬の字を用う」や刃がうすくなり、金具や革にあたると、曲がるか折れる恐れがあるであろう。万一にも研ぎ数のまぬがれた物があれば、大いに大切にするべきである。そうでなければ、新刀で曲折をよくしらべ、切れ味を試して、差し料とするべきである。
ある本に「鉛刀一割」[なまくら刀で物を断ち切る」といって、なまくら刀でも物が切れることがある、よく物を切るばかりが能ではないと書いてある。もっとも笑うべきである。神代にあったとされる十握の剣をはじめとして、天子護身の刀剣は平人の論ずべきものではない。
武家の時代に入って、源氏の髭切丸、膝切丸。平氏の小烏丸、石切丸。北条氏の鬼丸[または鬼切丸とも言う]、今川氏の八々王、上杉家の小豆長光、豊臣家の骨食などの刀はよく物を切ったから、その名がついた。剣は物を切る効用を捨てては、何の役に立つことがあろうか。上作、下作はただ剣の見た目をもって、分類されたのである。一向実用には関係がない。どれほどの名工といっても、鉄を選ばず心をつくさないのなら、切れることはあり得ない。上手でない刀工の造る物でも、良い鉄を選び、心をこめて鍛えたときには、必ず物がよく切れる刃ができる。だから平士はただ作柄の上下にこだわらず、曲折をよくしらべ、切れ味の善し悪しを試してから帯刀するのを、剣の実用と知るべきである。
刀を鍛えることについて古代の造り方は知る由もないが、慶長以後の新刀と称する造り方の大略を、ここに略述する。その造り方は、まず、丸鍛、甲状、本マクリ、半マクリと言うのは、良い鉄をよく選び、刃鉄と地鉄をむらなく十五遍ずつ鍛え上げるのを丸鍛、または真の十五枚鍛えとも言い、刀の鍛え方の最上の方法と言う。このように心をつくして力を入れれば、つたない刀工でも、なお良く切れる刀を造ると言う。まして良工であればなおのことである。刃鉄を本鍛にして、地鉄は略して鍛え、中に包んで鍛えるのをマクリと言う。背の方から地鉄を包むのを甲伏と言う。
焼刃の上でいろいろの吉凶を論じ、五性生尅の弁をとなえる者が多い。元来、巫祝や占い者流のたわごとであって、志のかたい武士がこだわるべきものではないのであるが、青少年のために、焼刃の起こりを述べよう。焼刃の模様は、地鉄刃鉄ともによく鍛え終わって、土を塗り上げて、どのような焼刃にしようかと、思うように、ヘラで土を落とす。このときにヘラがさわって思わぬ所が落ちたの が「ヘラカケ」と言う疵になるのである。右のようにヘラで思うように焼刃の模様をこしらえ終わって、火に入れて焼いて、水に入れて引き出すと、土の落ちた所が焼刃となり、土を塗った所が地鉄となる。火に入れるときに、あやまって物にさわって、土が落ちると焼崩と言う疵ができる。いっこうに吉凶利鈍に関係ないことを知っておく必要がある。
ある者は言う。剣の利鈍を判断する基準は、ニエと匂にある。なかでも匂が一番大切で、ニエが第二であると言う。剣相を見る者はニエの善し悪しによって作の上下をきめるのは誤りである。ニエは鉄が火に焼かれてわいたあわの心である。匂は水と火が過不足なく鉄の精神が完全に備わることで現れるところの鉄の気である。だから、ニエのない刀も匂があれば物はよく切れるとも言うが、匂のない刀は切ることはできないと言う。この説ははなはだよくない。匂のある刀も、かたすぎて欠ける物もあり、柔らかすぎてまくれる物もある。であるから、匂も頼りにしてはならない。
このような説に頼って試してもみないで、差し料とすれば、身が危ういことになる。あるいは物がよく切れる刀は、第一、切先の釣り合いがよく、焼刃が手元から切先へ次第に太く焼き上がったのは、試すに及ばずよく切れるのである。これを霊剣の伝などと言うけれども、あやしいもので信じてはいけない。 すべて刀剣は非常の時にのぞんで、わずかの疵があるなしで勝負の場で効果が現れ、生死を決定するものであるから、十分に選んで帯刀すべきである。現在の人は、もてあそび物と同じにして、数十振も貯え、毎日取り替えて帯刀するのを好む者も多くいる。しかしながら、皆、自分の心構え腕前に相応して、その上、切れ味も十分な物は、それほどあるとも思われない、昔の人も一、二振の良刀を入手して満足していたのである。
刀脇差拵之事
すべて刀剣に限らず武具の類は、自分の力量を知って用意することが一番大切であるから、体の長短、力の強弱によって決めるので、一定の基準はないけれども、中位の人の寸法を考えれば、刀は二尺一、二寸から三、四寸までが一番良く、刀身の重ねが厚く三角であって、刃肉が十分あり、百度振って切先の下がらない程度がよい。ただし、戦場に臨んでは、少し短いほうが有利であると言う。短ければ抜き付けが早く、力が全体に行きわたるので、金属、革などもよく切れるからである。
最近は皆、焼刃、樋のある刀を嫌うけれども、樋は剣梵字、倶利伽羅竜などの切り物と同じで、昔の良工も多く樋を打ったので、少しも害はない。また、刃肉が厚くて自分の力量をこえる物は、樋を打って釣り合いを良くする。しかしながら、みだりにこれを打つと、刀剣の筋を切断し、その力を弱めることにもなりかねないので、よくこのことを心得て打つべきである。今は刀工も刀屋も利欲のために樋を打って、疵を覆いかくすことがあるから、十分に吟味するべきである。皆焼刃は地鉄少なく背の引張りが薄いので、折れ傷のできやすい不安があろう。すべて皆焼刃に限らず、大出来で、焼刃の深い物は、良工の作と言うけれども、鎌倉物以外は危険であろう。まして、荒沸の多い新刀の場合はなおさらである。
脇指は一尺三、四寸から五、六寸、または、七寸以上とか、自分の力量に応じて用い、もっとも片手打ちによい物が有利であろう。 佩刀の制も古来、たびたび変化した。古代は太刀を帯取でもって佩いて、腰刀や打刀をさした。その後、あるいは太刀佩ではき、または帯にさした。ともに短刀をさしそえたのを、力量のある者は、太刀二振を佩いていることが、古い記録に数多くある。中昔の人もこれを学んで、大太刀小太刀をさしそえて、短刀をさしたので、腰がわずらわしいので右側の腰にさして、組み討ちなどの急の時に用いた。だから妻手差の名ができた。その後は、腰上にさす物が多いので、邪魔になることが多く、さしぞえの刀はその益が少ないとして、これを止めて、短刀を左にさすことになった。
戦国のころは、別に妻手差をさしている者はきわめて少ない。甲州の馬場美濃守が短刀を五つまでさしたなどと言うことは、変わりもの好きのこじつけであることは間違いない。これらのことは、古い記録を見れば、はっきりしていて、疑いはとける。自分が考えるのに、昔は、両刀を佩き、中昔の頃、三刀を佩き、後にまた両刀となったことは、腰の上のわずらわしさだけでなく、古代は武士は皆弓矢を重視し、血戦を次としたからで、その事情から白兵戦の武器を多く佩びる理由がない。だから、太刀はひもで佩き、小刀、打刀、短刀、腰刀の類をおびるまでである。中昔の頃、弓道がおとろえて、兵士は皆白兵戦を第一としたから、三刀を佩びて、大刀は血戦の用とし、中刀は急の応ずるのに用い、短刀は組討に使った。その後、武士は皆、槍を重視し、人々は槍合わせを第一の手柄とし、大刀は必ず槍合わせの邪魔になり、その上、急いで抜くのに役立たないので、元亀天正の頃には刀の寸法は大いに短くなったと言う[永禄の頃は二尺七寸を長太刀と称し、中古ではもっぱら三尺以上を長太刀として用いた。
刀脇差を佩びることは、時代の変化だけではない。別に必要な武器があったからであるが、これは論ずると長くなるので省略する。
欛は刀の場合、七寸五分か八寸、柚の木でナカゴががたつかないように十分堅くくり入れ、鐔[俗に㓡の字を用う]〈原注 ナカゴの意に用いている〉は欛先まで通るほどにするがよい。茎が短い場合は釣り合いもよくなく、両手を懸けて打ったとき、欛中からしばしば打ち折れることがあり、短い茎は搨上げてでも長くするべきである。縁頭は鉄または銅で造るがよい。高彫、置上などは害が多いから用いてはいけない。目釘は目のつまった竹を用い、目貫は高すぎないように し、欛鮫は上を平苧で巻き塗りこめるとも、または、漆着せにするべきである。欛糸は太刀巻、片捻巻などがよい。また、欛糸を巻いた上を麻の縷緒、観世紙縷の類でくるくる巻いて、先陣の用意にしろと言う説もあるけれども、欛が太くなって手の内の締まりが悪いので、有利とは言いにくい。
鍔は鉄の無地、形は丸、撫角、木瓜など好みによるがよい。腕貫の緒に穴をあけたのもよい。脛巾金[俗に鎺を用う]は銅の一重、切羽も一枚裏の方厚さ一分あまりにして、ぐらぐらしないようにすり込むがよい。脛巾金は、物に強く当たるときはすぐに放れるものであるから、鍔が刃の方に躍りでて、欛が甘くなり手心が悪いものである。そのときの用心に裏切羽も丈夫にこしらえるべきである。
鞘は下を糊づけにして合わせ、上を漆で塗ったものであるから、長い戦陣で雨露にうたれ、または、川越えのとき、水に入れば糊がふやけて、はがれてしまうものである。それを防ぐには、平苧で巻いた上を塗りごめにするか、巻鞘などがよいであろう。上飾の締め金具だけが美しくても特別の強みになりはしない。太刀拵などは時代にあわないと言うべきである。昔の衛府の横刀は見た目の立派さを第一として鳥頸、竜頭の飾りを美しくして、刃は細造りか木太刀などであったのを『韠䪝』で佩いたから、欛先が下がり見苦しいので鞘尻に締め金具をつけて釣り合いとしたのである。今の刀は見た目の立派さを省き、刃は肉厚なのを好むので、太刀拵えにしたのでは、帯差にしても、腰固にさしても小尻が下がり、馬上、徒歩ともに具合が悪く、その上、無用の重荷を帯びるのに等しいから、害があっても利はないであろう。 下げ緒は甲斐の口の柔らかなのか、駿河打の類がよい。刀脇差ともに蟇の皮をかけるがよい。
野太刀妻手差之事
野太刀は昔のいわゆる長太刀である。三尺余りから長いのを言う。力量のある人はその好みにまかせて佩ぶるべきである。その製法は、今の真の太刀などと同じで、韠䪝につけて箙または鉄砲を輪束にかけるように欛を左の肩の上へ出し、後ろに佩びるのである。
ふつうの武士が用いることができる物ではない。妻手差は佩びない方が利が多いけれど、好みにより、または大脇差をさすときに用いるがよい。刃七、八寸、三角にして尖ったのがよい。欛は一束一伏か二伏にし、頭を太くし、馬尾や琴糸の類で巻き、手留めに喰い出し、鍔を打ち、栗形に、具足の上をめぐらして結べるほどのものをつけておくべきである。
10.忘れてはならない幕末の英雄
中島三郎助
一番最初に彼を見たのは昭和30年代発行の幕末写真集である。
写真の説明には編集者にも名前が分からず百戦錬磨の官軍の隊長であろうと記載してあった。その時驚いたのは顔つきが只者ではなく、人を何人も斬っているな、地獄を見てきた目だなと思った。手を見ると長年修行をしてきた人の手であることがすぐにわかる。
小生も自分なりに剣の修行をしてきて手の大きさでは負けないつもりであったが、この手を見ると敵わない事が直ぐわかる。この人と出会ったら戦いは避けようと思った。これは武道家の直感である。剣術の達人であろうと思うが
彼のことが分からず、しばらく調べていると浦賀奉行与力、中島三郎助であることが分かった。浦賀奉行与力中島清司の子として生まれる。寛文9年下田与力として召し抱えられ代々与力を務めてきた家柄である。若いころより砲術に才能を見せ、荻野流免許、高島流皆伝を受けた。
モリソン号事件で(天保8年イギリス軍艦が日本人の漂流者数名を送り届けると言う名目で浦賀に入ってきた。幕府は長崎に入港するように指示するが無視)砲手を務め褒美を受けている。嘉永6年ペリーが来航した際に副奉行として通詞の堀辰之助らを連れて旗艦サスケハナ号に乗船した。その後浦賀奉行戸田氏栄ら重役に変わり香山栄左衛門と共にアメリカ側使者との対応を務めている。アメリカ側の記録では船体構造、搭載砲などを入念に調査したことから密偵のようだと記載されているペリーの帰国後老中の阿部正弘に提出した意見書では軍艦の建造と蒸気船を含む艦隊の設立を主張。嘉永7年に完成した日本初の洋式軍艦鳳凰丸の製造掛の中心として活躍して完成後はその副将に任命された
彼は江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所、第一期生として入所し造船学、機関学、航海術、万国法を修めた。この時代に西洋高等学門を修めているのである。
安政5年築地軍艦操練所教授方に任じられている。安政6年浦賀の長川を塞ぎ止めて日本初の乾ドックを建設、遺米使節に随行し咸臨丸の修理を行った。万延元年軍艦操練所教授方頭取に進んだが病気の為(喘息持ちという)、文久元年、与力に戻った。
慶応4年戊辰戦争勃発すると海軍副総裁、榎本武揚らと行動を共にして函館へ渡った。函館政権下では函館奉行及、砲兵頭を務め戦時には本陣前衛の千代岱陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦した。この時には大分活躍したであろう。函館市街新政府軍にされた後、軍議では降伏を説いたが中島自身は千代岱陣屋で討ち死にすることを口言しており五稜郭への撤退勧告も新政府からの降伏勧告も拒否。本陣五稜郭降伏二日前の明治2年5月16日長男の恒太朗、次男の英治郎、腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共に戦死、享年49歳
明治2年3月函館旧幕府軍追討令が新政府により下されたことを知った榎本はじめ函館政権幹部らは函館の名高い庭園で別盃の宴を催した。その時三郎助は時世の句を残した。
ほととぎす、我も血を吐く思い哉。
我もまた死士と呼ばれん 白牡丹。
三郎助は文武両道の人で人情に厚く多くの人に慕われている。
明治24年三郎助の23回忌にあたり三郎助を慕う地元の人々によって愛宕山公園に中島三郎助招魂碑が立てられた。その時三郎助の業績を称えて浦賀にドックを建設することを荒井都之助が提唱、榎本の支援を受け明治30年浦賀船渠株式会社を設立、現在、中島三郎助祭り咸臨丸フェステバルの会場に利用され浦賀市による整備計画も進められている。
昭和6年函館戦争に散った中島親子を記念して千代岱陣屋付近の土地が中島町と名付けられて現在中島町には中島親子の碑が立っている。又、木戸孝允(桂小五郎)も世話になっている。
安政2年木戸は中島家に寄宿し造船学を学んだ。短期間の付き合いだったが三郎助は木戸の才幹を認めて家族ぐるみで厚遇した。木戸は明治政府の高官になったのちも三郎助から受けた恩義を忘れることはなく酒席で中島親子の陣没を聞くや酒を下げさして感歎したという。明治8年に窮迫した三郎助の妻が自宅を訪問するや歓喜し恩師の厚情を語った、榎本に所持万端、遺族の保護を依頼した。明治9年明治天皇の東北巡行随従したとき五稜郭に向かう途中、中島親子の戦死した付近を通過した木戸は従事を回願し人目をはばかることなく慟哭したと云う。木戸も又義理に厚い人であることがわかる。
福沢諭吉も自伝に慶応4年に渡米中正史の小野友五郎に不従順であったため帰国後謹慎を命じられた。三郎助は老中、稲葉正邦に掛け合い処分を撤回させたと回想している。榎本武揚は長崎海軍伝習所以来の仲である三郎助、三男興曾八を養育して長男恒太郎の後を継ぐ形で、のちに海軍機関中将となり勲一等旭日大褒章を受章している。榎本武揚、木戸孝允の引きたてが有ったのであろう。
調べていくうちに、こんな素晴らしい人がいたことが分かり嬉しくなるが誰も功績を語ることがなく歴史のかなたに埋もれてしまうことが惜しく機会が有れば尊敬する歴史上の人物であると声を大に伝えてきた。最近は三郎助の事を取り上げ始めている。嬉しい限りである。司馬遼太郎のような人が小説で取り上げれば土方歳三、坂本龍馬、に匹敵する人物であることが日本中に知れ渡る。剣術の腕は一流、知識は当時最高の海軍伝習生第一期生、明治政府に仕えれば木戸孝允、榎本武揚に匹敵するほどの栄華が望めたのに親子共々幕府に殉じて戦死をする。
時世の句が ほととぎす 我も血を吐く 思い哉。
三郎助が今まで死ぬ思いで培ってきた学問、技術、を先祖伝来幕臣の家に生まれた為に徳川家に殉じて新生日本の為に役立てない悔しい思いが伝わってくる。