機関紙[newspaper]

機関紙 第八号

   

1.ご挨拶 ・・・・・・・・・・ 籏谷 嘉辰

写真:籏谷 嘉辰

 令和2年戸山流居合道連盟機関紙を発行するにあたり一言ご挨拶いたします。

 令和2年は激動の年であります。アメリカとイランの小競り合い。ゴーン被告の海外逃亡。新型コロナウィルス問題。香港民主化運動のデモの終わりのない混乱。不安定な世界だからこそ我々の武道団体が存在感を示すときであります。

 今年の全国大会はオリンピックの関係で会場が使えず、止む無く香港で第44回全国大会を開催することになりました。会員の皆様は都合のつく限り参加していただくようお願いいたします。香港の会員の皆様の暖かい接待が待っております。

 今は海外の方が元気があります。香港は会員の増加が著しく益々活発に活動しております。又、香港支部員は町田時代祭りや大国魂神社の抜刀参加、武者行列の為に沢山の香港の方々が来日して協力していただいてます。

 ニューヨークでまた、新しい支部が活動いたしました。弁護士としてニユ―ヨーク市の上席弁護士をしているザック氏が立ち上げました。これでニユ―ヨークには支部が三か所活動しています。逆に日本国内は減少の経過にあります。連盟の今後の課題として何とか国内の会員の増加の工夫を皆様に知恵を絞って頂けるようにお願いいたします。

   

2.令和元年 活動報告

  • 1月27日 総会・第1回講習会・昇段審査(町田)
  • 2月20日~26日 NY・FL講習会・昇段審査
  • 3月10日 靖国神社奉納演武
  • 3月27日~4月2日  講習会・昇段審査(スペイン)
  • 5月17日~18日 第2回講習会・昇段審査(町田)
  • 5月19日 第43回全日本戸山流居合道連盟全国大会(町田)
  • 6月16日 大国魂神社奉納演武
  • 8月23日~26日 講習会・昇段審査(北京)
  • 9月8日  第3回講習会・昇段審査・撃剣講習会(町田)
  • 10月13日 赤城神社奉納演武(中止)
  • 10月27日 町田時代祭り
  • 11月27日~28日 香港大会・講習会・昇段審査(中止)
  • 12月1日 理事幹事会(町田)

   

3.第43回 全日本戸山流居合道連盟 全国大会

初段以下

・形の部

 初段以下

  1位 前橋 勝博(群馬)

  2位 岡崎 徹(山形)

  3位 馮 韻霖(尊武館)



2段・3段

 

 2段・3段

  1位 ロブ ライモンディ(白虎館)

  2位 陳 雅洛(町田)

  3位 エイドリアン デモレ(今昔気負)



4段以上

 

 4段以上

  1位 山田 孝一(相模原相志会)

  2位 葉 嘉偉(尊武館)

  3位 張 林(北京)



組太刀

・組太刀

 

  1位 張 林・李 夢晨(北京)

  2位 陳 廣隆・謝 智威(尊武館)

  3位 浅海 修・新関 昇(鎌倉)



初段以下紙

・試斬の部

 初段以下

  1位 李 茂恒(尊武館)

  2位 三角 恭平(鎌倉)

  3位 鈴木 信太郎(町田)



2段・3段

 

 2段・3段

  1位 佐藤 博(町田)

  2位 大岩 勇人(練馬)

  3位 鎌田 尚(山形)



4段以上

 

 4段以上

  1位 小倉 一浩(相模原相志会)

  2位 平本 真人(相模原相志会)

  3位 山田 孝一(相模原相志会)



小太刀

 

 小太刀

  1位 齋藤 謙(泰正館)

  2位 長野 宏治(鎌倉)

  3位 新関 昇(鎌倉)



土壇の部

・土壇の部

 

  1位 アブドゥル タヘル(町田)

  2位 齋藤 謙(泰正館)

  3位 澤村 太陽(町田)

  4位 清野 昌宏(鎌倉)

  5位 塚田 満郎(勇進館本部)



団体戦

・団体戦

 

  1位 鎌倉(浅海 修・新関 昇・三角 恭平)

  2位 尊武館(葉 嘉偉・陳 廣隆・謝 智威)

  3位 混合(張 林・李 夢晨・鈴木 信太郎)



撃剣の部

・撃剣の部

 

  1位 後藤 敦(町田)

  2位 村木 津三郎(町田)

  3位 葉 嘉偉(尊武館)



籏谷杯

・籏谷杯

 

  1位 美濃部 嘉篤(町田)

  2位 長谷川 嘉将(町田)

  3位 荻野 博隆(友心館)



   

4.第43回全国大会について ・・・・・・・・・・ ハリー カーンス

写真:ハリー カーンス

毎年五月、日本戸山流の大会が近づくにつれ私はワクワクしながらも緊張感でソワソワし始めます。なぜなら一年間練習を頑張った成果を存分に発揮し優勝して賞と栄光を勝ち取りたいからです。でも賞や栄光といったものよりも貴重だと思っているのは、大会が自分の気概をテスト出来る機会だということです。今年私は試斬、型、団体試斬、土壇と撃剣に参加しましたが結局全部落ちてしまいました。 型と試斬ではチャンスがあったと思ったので自分の結果に対してがっかりしました。言い訳をせずにはっきり言えば技以上に心の鍛えがまだ足りなかったと思いました。でもそれこそが武道なのでしょう。体と技を鍛えて稽古中には上手に成功しても、大会のようなプレシャーの下では心が弱ければ負ける事は当たり前です。

   

5.スペインバルセロナ・アンドラ講習会・昇段審査・演武奮闘記 ・・・・・・・・・・ 佐藤 辰美

写真:スペイン

 平成31年3月27日~4月2日 旗谷先生率いる精鋭部隊は旗谷先生、長谷川剣士、越合支部から美濃部剣士、鎌倉支部から浅海剣士、先生のお孫さんの基司郎剣士そして私の6名。早朝5時町田集合でスペインの地へ馳せ参じました。途中ブリュッセルを経由して、ブリュッセルまで10時間程の飛行機の中では新作映画の見放題、ワインやビールの飲み放題で長谷川剣士と盛り上がりました。メニューにないジントニックの注文まで聞き入れてくれたCAのお姉さんに「お強いのですね!」と半ば嫌味を言われつつもあっという間の10時間でした。乗り継ぎのブリュッセルでは3時間待ちですが、ベルギーワッフルとソーセージでまたもや美味しくビールをいただきました。バルセロナまでは2時間程、夢見ごこちでうとうとしているうちにバルセロナに着きました。

 1日目(3月27日 (水))

写真:スペイン

 バルセロナ空港には夜10時頃の到着でした。刀を受け取り、スペイン支部のセルジオ剣士とクリストバル剣士とセサ剣士のお出迎えを受けホテルへ直行。ホテルへの到着は11時、しかし初めてのスペインをこのままホテルで寝るだけなんて有り得ないので6名でまだ眠らないバルセロナの街へパエリヤを求めて繰り出します。パエリヤと魚介とタパスとセルベッサ!(一番初めに覚えたスペイン語はビール!)セルベッサで乾杯していると、真っ赤なバラを持ったお兄さんが私に微笑みバラを差し出しました。素敵なサービスかと思いきやそんなはずもなく代金を求められる始末。街中にはスリも多いらしく早速洗礼を受けそうになりました。

 2日目(3月28日(木))

写真:スペイン

 スペインの夜は長く朝はゆっくりスタートなので、朝ご飯は9時頃。私は朝6時には目が覚めてしまい、早朝の街を独りでお散歩。雲一つない青空とヨーロッパの建築物とがマッチしてどこを見ても絵になる場所ばかりで素敵!ホテルに帰って朝食のバイキングは朝からスパークリングワイン付き、生ハム・サラミ・チーズ・オムレツと来れば飲むしかないでしょう!セサ剣士が車を出してくれて、今日は一日観光日。楽しみにしていた世界遺産サグラダファミリアを見学します。10時から2時間程をかけてゆっくり見学できました。さすがガウディの建築、外の彫刻の見事なこともさることながら、内部の装飾やステンドグラスの美しいこと!息をのむばかりでした。長い時をかけていまも建設中ですので、伝統的な彫刻から斬新な前衛彫刻まで時の流れが感じられます。

写真:スペイン

 お昼はサグラダファミリアを見ながら青空の下でパスタとピザとイカ墨のパエリヤとなればやっぱりセルベッサ!スペインはのんべぇに寛容な国です。私には合っています!その後はセサ剣士の車で市内観光。時折ガウディのよく解らないオブジェが現れます。バルセロナオリンピック公園からの海沿いの景色、街中の景色。それからコロンブスの銅像で締めくくり、メインストリートを抜けて市場へ。色彩豊かな市場では大きなもも肉のハムがぶら下がり、南国の果物が並び、新鮮な魚介類も並びます。思わず新鮮な巨大ウニをほおばります。1つ3ユーロ(500円くらい?)物価は日本とおなじくらいかな?もちろん生ハムとチーズはお土産に。ホテルに戻ると5時。夕食は地元民の集まる美味しいお店で2時間程ゆっくりご飯は魚介のパエリヤとイカ、タコ、エビがそれぞれ入ったお料理、何を食べても美味しくワインとビールがもれなく飲めます。お店を出ると8時半。何やら通りではデモの真っ最中。移民問題のデモらしい。パトカー(スペインのパトカーの緊急灯は青色でした。)や警察官が大勢でしたが、なんだか日本より警察官も陽気な感じ。ホテルに戻りその日の〆は浅海剣士が市場で見つけた世界三大果実のひとつ、ティリモヤ(釈迦頭)。初めて口にするその味は杏仁豆腐のようでした。

 3日目(3月29日 (金))

写真:スペイン

 今日は移動日アンドラに向けて出発です。セサ剣士が迎えに来てくれました。まずバルセロナに新しくできたセルジオ剣士の道場に向かいます。内装は日本文化の色々なものが展示されていて凝っていました。天井も高くシャワールームと更衣室が完備されていて、明るくて素敵でした。もちろん美味しいお菓子とウエルカムシャンパンも有りましたよ!アンドラはバルセロナから北へ100キロくらいかな?郊外へ抜けて山が大分近づくと山肌に地層が見え始めます。スペイン・カタルーニャ州都バルセロナから西北約50Kmにモンセラートという小山脈がありすぐ北にフランスとの国境、のどかな田園地帯にそびえ立つ山塊、長さ約10Km幅約5Kmのこぎりの歯を立てたような山の中腹(H=725m)モンセラート修道院があります。ここには地元の信仰があつい「黒いマリア」像があります。黒いマリアはカタルーニャの守護聖母「ラ・モレネータ」と呼ばれ親しまれています。一目見るために観光客が世界中から集まります。その歴史は古く西暦880年にマリア像が発見されて1025年に修道院が創設されたようです。ここでは、ゲーテが「魔の山」と呼び、ワーグナーがオペラの着想を得て、ガウディがサグラダファミリアの構想を得たと伝えられているそうです。何やら有難く、エネルギーが貰えそうな場所でした。

写真:スペイン

 さて、進度をアンドラに向けて進むと途中で休憩に寄ったレストハウスで妙な形のガラスの入れ物を発見!何に使うものか?と尋ねると「ポロン瓶」と言ってこれにワインを入れて口をつけずに直接に口に注ぎ込みワインの回し飲みをするもので、この地方の伝統的な飲み方らしい。取りあえず郷に入れば郷に従いでチャレンジするものの上手くいくはずもなくゲホゲホと服を汚す始末。でもここでしか出来ない楽しい経験でした。そしていよいよスペインとアンドラの国境へ。地続きの国境を初めて経験しました、日本は島国ですから珍しい感じです。アンドラに入国すると小高い丘の上に行きアンドラの街並みを見下ろします。遠くピレネー山脈にはまだ雪が残りスキーも楽しめる様です。ホテルは家族で泊まれる程の広い部屋で一人ではさみしいぐらいでした。アンドラでのウェルカムパーティではセルジオ剣士夫妻とクリストバル剣士に加えフロリダからのマイク剣士夫妻も加わって賑やかな夕食となりました。皆さんの心使いが暖かいです。

 4日目(3月30日 (土))

写真:スペイン  

 今日は講習会と「プリメーラ・フェスティバル」での演武の日です。講習会午前の部は10時から1時、旗谷先生による基本のお浚いから始まりました。スペイン各地の道場から30名程の剣士たちが集まりました。戸山流形8本の稽古です。皆さんの真剣な気持ちがよく伝わってきます。ゆっくりたっぷり3時間のランチタイムを挟んで、(サングリアやワインのソーダ割がお昼の定番の様です。)講習会午後の部は4時から6時、上段者は旗谷先生から組太刀の指導、下段者は長谷川剣士から形8本の指導、サポートに美濃部剣士と浅海剣士と私が入ります。兄弟子たちの教え方が勉強になります。言葉の壁もありますが、伝えたい気持ちと解りたい気持ちがあれば、片言の英語の単語だけでもなんとかなります。私自身も教えることがとても勉強になりました。女流剣士の友達も出来てスペインの皆様に感謝。そしてアンドラの「春祭り」会場へ。アンドラも桜が満開です。特設ステージには提灯や傘の飾りがあり、和太鼓の演奏もあったようです。演武はスペイン支部の戸山流の形に始まり、次にマイク剣士と私の旧軍の形、長谷川剣士と浅海剣士の小太刀護身術、試斬りは浅海剣士の雷鳴、旗谷先生の蜻蛉、美濃部剣士の水返しと太巻き、長谷川剣士の水車と土段全てが成功して拍手の内に終了しました。

 5日目(3月31日 (日))

写真:スペイン   

 講習会と昇段審査の日。講習会は10時から1時、昇段審査を受けるグループは旗谷先生による試斬りの指導、昇段審査を受けないグループは長谷川剣士による試斬りの指導スペインの剣士たちにより手際よく試切りの準備がされます。セルジオ剣士より女子にアドバイスが欲しいとのことでしたので、パトリシア剣士、リリ剣士、アイティベル剣士、アナ剣士、エバ剣士と順に回ってアドバイスしました。5名の内2名は午後に初段の審査を受けます。スペインの剣士たちはみるみる上達していきます。皆それぞれに何かを掴んだ様子でした。昇段審査は1時から2時、講習会とは別会場で厳かに行われました。初段から5段まで総勢9名がうけました。形の審査と試斬りの審査です。緊張が走ります。女流剣士のリリ剣士とアナ剣士が初段を受けます。見ているこちらも手に汗を握ります。「がんばれ!」無事に審査を終え初段の女流剣士が誕生しました。良かった!セサ剣士も合格。クリストバル剣士もセルジオ剣士との見事な組太刀で無事に五段に合格しました。

写真:スペイン

 アンドラでの最後のランチは前菜・メイン・デザートのフルコースでした。皆さんの審査の成果もあり和やかな楽しい会食となりました。その後はバルセロナに向かって帰路に着きます。その前にアンドラでお土産のお買い物。なんといってもアンドラは税金がかかりません。関税なしなのです!素晴らしい!バルセロナに着いたのは夜中の11時でした。バルセロナの最後の夜は旗谷先生と長谷川剣士と三人でタパスとセルベッサ!スペインの余韻に浸りました。明日は出国です。

 6日目(4月1日 (月))

写真:スペイン     

 朝はやく目が覚めましたので、一人で朝食前のお散歩に出ました。新聞を片手にドーナツを食べながら地元民になったつもりで街中を歩きます。市場までの道も慣れたものです。フルーツの盛り合わせも買い食い!あっ、これから朝ご飯だっけ!いかんいかん!でも朝ご飯は10時から、朝のビュッフェでも〆はシャンパンで、最後まで美味しい食事とワインをいただきました。セサ剣士がバルセロナ空港まで送ってくれましてスペインの旅は至れり尽くせりで終了しました。帰りの飛行機もブリュッセル経由でした。空港のイタリアンでビールを飲み暮れ行くヨーロッパに別れを告げました。

 7日目(4月2日 (火))

写真:スペイン

 帰りの飛行機でも映画の見放題、ビールの飲み放題で10時間ほぼ寝ないで過ごしました。成田に着いて刀を受け取り外に出ると、美しい夕焼けの中に富士山が出迎えてくれました。出発前に咲き出した桜もまだ残っているようで、夜桜を見ながら帰ってきました。とにかく、みそ汁や醤油の味が恋しくて、みんなですし屋に行ったのは言うまでもありません。最後まで素敵な生まれて初めてのスペインでした。世界中で戸山流の剣士たちが頑張っています。皆さま是非一度海外支部の頑張りをその目にしてみて下さい、行って見て初めて分かることもたくさんあります。スペイン講習会の成功にあたりスペインの全ての剣士たちに感謝いたします。有難うございました。

写真:スペイン 写真:スペイン 写真:スペイン 写真:スペイン 写真:スペイン 写真:スペイン

   

6.町田時代祭り ・・・・・・・・・・ 酒井 宇

写真:町田時代まつり

私は仕事が不定期休の為、今回が初めての参加となりました。さてまずは武者行列に加わり町内を一周りするところから一日が始まりました。私は「本陣」の旗を持って行列に参加し、お殿様をのせる御駕篭と、武者を乗せた騎馬隊の間に位置しました。本来であればお殿様のすぐ後方ですから、いざ刺客が襲ってきたら命をとして主君をお守りしないといけない重要な位置です。かの幕末の桜田門外の変のように、主君を守れないと失格なわけです。(笑)

写真:町田時代まつり

行列は町内を周る為、けっこう長時間になります。私の前の御駕篭をかついでいる人達は途中何度も肩を左右に替えていました。この行列では勿論中に人は乗っていないのですが、それでも相当肩に負担がかかる様子でした。人が実際に乗っていると肩への負担は計り知れないでしょう。いかに先人の方々が大変な思いをしていたか、頭が下る思いでした。あと後方の馬も気になりました。けっこう馬の瞳ってかわいいものです。牧場でも行かない限り間近で観る事はあまりないのですが、今回は真後ろです。何度も振り返ってしまいました。

写真:町田時代まつり

行列が終ると、いよいよ演武です。参加予定の者が一人休みになった為、私はその者の分を含め何と三回演武を行う事になりました。大勢の客の前で一回なら兎も角、三回です。幸い結果、三回とも失敗なく終了出来ました。演武では藁を斬るわけですが、本来は敵を想定しているわけですから、人が大勢観ているからと言って集中出来ないようでしたら相手に殺されてしまうわけです。普段の稽古から私は藁を敵と思うように心がけています。敵であれば一瞬の隙を抜刀から戦いを終えての納刀まで見せてはいけません。そのような心境に居れば不思議と観客は気になりませんでした。まあかっこいい事言いましたが、次は失敗したりして…。(笑)一日、流鏑馬の方々を含め、大きな事故なく終って良かったです。

写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり 写真:町田時代まつり

   

7.大国魂神社奉納演武 ・・・・・・・・・・ 後藤 敦

写真:大國魂神社

 府中にある大國魂神社での奉納演武が平成最後の年であり、かつ令和元年である今年も行われました。

 ここでの奉納演武の特徴は何と言っても観覧者との距離が近いことだと私は思っています。駐車場に杭を立て、虎縞のロープで囲う簡素な会場作りであり、スペースに限りがあるため、どうしても狭くなってしまいます。そのため大体観客の顔が見える時は失敗し、集中している時はぼんやりと全体が把握している時が多いです。

写真:大國魂神社

 兄弟子である一色さんに以前に教わったことですが、すぐに斬ろうとするのではなく自分の間合いを整えた上で「観覧者が何を斬るのだろう」と頭に?マークが浮かぶくらいになってから斬るというのを試し易い場です。

 今回の天気は晴れから曇りという、太陽光が若干強いことを除けば、比較的演武向きでした。今回も武者行列をこなして試斬という流れで、水返しと波返しという最近の私の定番演目となっている2つを奉納しました。水返しはちょっと怪しい感じでしたが、無事に皆で怪我なく終えることができました。

 来年は別の技が披露できるよう、もっと腕を磨いて行きます。

写真:大國魂神社 写真:大國魂神社 写真:大國魂神社 写真:大國魂神社 写真:大國魂神社 写真:大國魂神社 写真:大國魂神社 写真:大國魂神社 写真:大國魂神社

   

8.アメリカ講習会、昇段審査 報告 ・・・・・・・・・・ 浅海 修

写真:アメリカ講習会

 2月20日から26日にかけてニューヨークおよびフロリダで恒例の戸山流講習会及び昇段審査が行われました。日本から籏谷先生、長谷川さん、基司郎君と浅海の4名が派遣されました。

 20日朝にニューヨークに到着、生憎の雪でしたがさっそくタウン観光と歓迎食事会の後、夕刻よりロングアイランドのザック道場で講習会・昇段審査。21日はMetropolitan博物館を見学し夕方よりホワイトブレインズのダン道場で講習会・昇段審査及び誠斬会昇段審査も行い最後に盛大な歓迎会を行っていただきました。22日は早朝にフロリダのオーランドに移動し、ニューヨークとは打って代わって気候の快適なフロリダでショッピング観光・食事会の後、Mike Soriero・じゅんこ夫妻のお宅に宿泊させていただきました。23日・24日は2日間連続で朝から夕方までの講習会昇・段審査・誠斬会昇段審査が行われ、最後にここでも盛大な歓迎会を行っていただきました。25日にフロリダを発って26日に帰国しました。

 アメリカでの講習内容は主催しているアメリカ側の要望をに従って決められるのですが、4日間の講習は戸山流形、組太刀、旧軍形、試斬、小太刀試斬、撃剣、小太刀護身道など多岐にわたりアメリカ会員諸氏の意欲が感じられるものでした。あわただい点もありましたが非常に充実した講習会・昇段審査が実施できたと思います。最後に主催に携われた諸氏の尽力に感謝します。

写真:アメリカ講習会 写真:アメリカ講習会 写真:アメリカ講習会 写真:アメリカ講習会 写真:アメリカ講習会 写真:アメリカ講習会 写真:アメリカ講習会 写真:アメリカ講習会 写真:アメリカ講習会 写真:アメリカ講習会

   

9.武学拾粹

召仕若党中間之事

 

 昔の武士は、皆、領地に引きこもり住居していたから、軍務に服する人数は、すべて代々召し抱えの者だけ引きつれたものである。だから、身分よりも人も多く召し抱え、戦いにのぞんで逃げ失せる者も少なかった。現在は、皆、一年限りの奉公人ばかり召し使う習慣になったので、出陣となったら逃げ失せて、役に立つことはあるまい。大切な一命を、一枚の約束手形を恐れて捨てることはあり得ないのは勿論である。しかしながら、蔵米取りくらいの身分の低い侍一人の配慮で、時勢に反して譜代の召使いを持つことは、どう思っても出来ないことであるから、よくよく人を吟味して召し抱え、なるべくは年を続けて奉公させ、とどめておくよりほかに方法はあるまい。

 吟味の仕方とて別に方法があるわけではない。加藤清正は殊の他に人ずきで、常に武勇の誉れある武士を召し抱えたいと心掛けられて、種々の工夫をして人選びをされたけれども、多くは間違っていたので、人相を見ることまで習われたが、やはり当たらない。後には、ただまじめな者は、勇気もあり誠意もあって、これ以上の人選びの方法はないと語られたと言う。家来を召し抱えるにはこれらのことをよく考えるべきである。

 若党中間は戦場では一命を惜しまず戦い、主人が重症負ったならばこれを助け、また主人が討死したら死体を片づけて退き、また、主人が敵を突き倒せばその首を揚げなどするのだから、無くてはならない者である。戦時になってにわかに良い者を召し抱えることはあり得ないから、常日頃よくよく人選びをして、召し抱えておくべきである。

 霓永のころまでは、槍持の選び方は特別にきびしかった。下馬落しなどということもあった。主人の供をして外出するときは、玄関先で槍持は、槍を横たえて主人の方へ穂先を差し出せば、主人は槍の鞘を抜いて穂を改め見て、また鞘をはめ、注意して持てと言い付けられるのをかしこまって受け、供をするうちに、主人が路上で知り人に会い、物語りなどされる間は、槍の穂を下げ、主人の右の手のあたりに出して下にかがむ。人立ちの多い所や騒がしい所を通るときは、主人が馬上でも歩行でも、右の手のあたりへ槍を差し出して通る。これを下馬落しと言う。少しでも相違あるときは召し抱える人はない。

 また、馬の口取りでも、沓打場と言うことがあり、橋の上や人ごみ、物音のあるときなどの心得である。現在はこれらのことを知っている人さえない。草履取りは身近の者だから、高給を取らせて召し抱えるが、槍持は小者だと考えて、雇い人などに持たせたりすることは、心掛けのよくないことである。槍持を中間と呼び、その他を小者と言うのは、古い言葉である。槍持は召仕いながら帯刀させ、身近く召し連れるので、若党と小者の中間ということなのである。

 昔は召仕いの若党小者の成敗が多かったから、自然と悪い者は少なく、主人を大切にした。今はこういうことは絶えて聞くことがない。昔は町人といえども手討ちが多かったという。

 家来の侍や中間が、少しでも盗みをした者、お供の帰りに主人の馬や駕篭に乗った者、奉公をやめて逃げた者、これらは後ろ手に縛り首をはねて、胴は刀脇差の試し斬りにした。供先からいなくなった者や主人の意に反した者、これらは主人が手討ちにしたのが多かった。この他、奉公人が食膳につき、明日、奉公の誓約書をお出ししますと言って、約束を外した場合は、殊の他むつかしいことになり、身元保証人を呼び、その理由を追求し、今年中はどこへも奉公致させませんという誓約書を取って許したのである。もし、その年のうちに他家に奉公すれば、先方の主人に断り、呼び寄せて成敗した。これらのことは、誰が定めたということではないが、その当時の一般の習慣であったが、今はそれを知っている者も少なくなったので、後の世のために書き置くものである。

倹約ヲ守ルベキ事

 倹約ということは、誰でも口先では言うことができるけれども、本当に倹約を知って行う者ははなはだ少ない。今、倹約な者と言われる人の行為を見ていると、皆ケチな物惜しみに流されている。倹約と物惜しみとは、天と地の差がある。まず、一銭でも出すことは殊の他にむつかしく、冠婚葬祭などは、生活の中で大事なことであるが、身分不相応に見苦しくし、自分が取り込むことは少しでも多いことを望み、他人に施すことは少しでも少なくしようと心掛け、日常の衣食住も、自分の分はずいぶん豊かにし、家族や家来はなるたけけずり、衣服や食物を粗末にさせて、自分自身だけ富ますようにするのは物惜しみであって、人の恨みを重ねる道である。倹約とはそのようなものではない。その家で一年のうち、どのくらい収入があるかを計算して支出を計算し、その余りはどのくらいと計っておき、その他の支出は可能な限り制限し、衣食住の三つは人の生きるための根本であるから、十分に配分し、自分の分は押さえて、妻子や家来に行きわたらせ、年々の余りを蓄えておき、戦や飢饉、病気や葬儀、火事などの思いがけない出来事に備えるべきである。まず、武士はいつ出陣するかわからない身であるから、日常用意をしておき、身分相応に金銀を蓄えておかねばならず、武具や馬具、それぞれに準備をしておき、時々は点検して修理もさせねばならず、軍事の割当の規定があるから、それ相応に人も召し抱えておかねばならないことである。

 さて、この覚悟を支えるのは、平常から自分の身分を守り、もっぱら節約をすることである。寛文のころの話を聞き伝えたのには、まず侍の住居はせまく、壁には唐紙を押し張り、天井をつけた家は五、六百石以上の上士でも少なかった。畳も座敷ばかりは表をつけ、茶の間や台所は、皆、菰・筵の類を敷いていた。天井のある家といっても、大方は葦簀や渋紙を上げたものである。明暦の江戸の大火事の後のお触れ書きでも、国持ち大名であっても三間梁のような広い家は作らないようにとあったことでも推し量るべきである。衣類も麻布、木綿の他は着用せず、公務の勤めのためとして、小袖・袷・帷子・上下一つずつを用意したまでであった。袴は革か木綿、肩衣は高宮戻子の類である。そうであるから三、四百石の侍の着用する衣服は、挟箱一つですんだという。食事も一日に一度ずつ味噌汁・菜の物をこしらえ、そのほかは焼き味噌・香の物の類ばかりである。友人たちの会合といっても、汁講・風呂寄合などと言って、たまたま魚などが送られてきたときは、その旨を言いつかわして各人が弁当持参で集まり、または風呂を各人宅で順番に焚いて寄り合い、湯に入り話をしたのである[昔は風呂を立てることは、殊の他のご馳走としたものである。蒲生氏郷が、家来たちをもてなすと言って、自分自身頭を包んで風呂を焚いたというほどであることでも知られる]。

 さて、衣食住がこのように倹約であったので、その他は推して知るべきである。これらを今に比べてみると、どうしたって貧乏にならない道理がない。あるいは言う、侍の生活が困窮するのは、贅沢だけが原因ではない。以前に比べ物価が二、三倍になったのが原因である、と。これは一を知って二を知らない者の言葉と言うべきである。寛永銭ができたころは、金一両で銭四貫文と替え、米三石ほどで金一両と交換した。現在はこれと違い金一両で、米一石、銭六貫文を通常の価とする。諸物価が高騰したのか、侍の金が少ないのかは、これで判断できる。武士はどれほど武勇にすぐれていても、貧乏しては武勇を発揮できぬものであるから、昔の武士が耕作に自ら精を出した苦労を思いやり、領国の初期の侍の倹約であったことを見聞し、病気や喪儀、出陣の費用を貯えておく心掛けをすることが、武士の大切な努めであろう。そこで次にその実例をあげて節約の手本とする。

 成瀬小吉[後に隼人正と名のる]三河時代に小姓に召し出され、初めて寝所の番のおりに、持っていった小衾(綿入れの夜着)に茜染めの裏を付けていたのを見て、相役の面々が羨んだと言うことである。

 岡左内[後に越後と名のる]は蒲生氏郷の家臣であって、武勇の働きの場数が多い。蒲生氏が滅んだ後、上杉景勝に仕えた。性格はきわめて倹約家でケチと言われるほどであった。いつも、黄金をならべて楽しみとしていた。あるとき、いつもの通り黄金を敷きならべていたら、組下の者が口論をしていると聞くや否や、おっとり刀で駆けて行った。その事件はこみ入っていて、ラチが明かず三日間も彼は現場にいて帰らず、取り散らした黄金のことは少しも思い出した様子もない。こんなことがあってから後は、岡左内は黄金より武勇のほうが好きな侍と言われた。その後、主君景勝が家康と対立するに及んで浪人、郷士の類を集められたとき、左内は多額の黄金を景勝に献上し、「年来のご恩によって蓄えおきました黄金です。軍用金にご不足はございませんでしょうが、新参の人々に御心付としてお遣いください」と申して家に帰り、友人に貸しておいた金銭の証文を取り出し、全部その借主に返し、「年頃、自分を節約して金を蓄えたのは、庫の中で朽ちさらすためではない。こういうときに主君や同僚のために役に立てたいためであります。いついかなるときでも貧乏していては、武勇を発揮できないからです。今、我等の軍用金は乏しくないが、不足のことがあったら、おっしゃってください」と気分のよい顔で返したと言う。左内のような侍は、時と場合による配慮がはなはだ深いと言えよう。

 慶長の中頃。家康公が駿河におられたとき、ある日、お夜食のお給仕でお側にいた小姓の何某とかいう者の着用している袴にお目がとまり、その方の袴はなんと言う物かと、ご質問がありました。これは茶苧と申す物でございますと申し上げましたら、大変にご機嫌を悪くされ、箸をさげ置かれて、汝は憎い奴だ。世の中がやっと昨日今日治まり、人民が戦乱の苦しみを免れたのに、もはや汝のような者がいて、そのような奢りをするのかと、大変にお叱りになり、その夜は食事も召し上がられなかったという。ご自身はなおさら節約をお守りになったことは、筆紙に書きつくしにくい。大阪夏の陣のおりも、渋染めの帷子に鷹の羽を散らした麻のお羽織を着用されたのである。その他は推して知るべしである。

 松平新太郎光政が初めて秀忠公にお目通りしたとき、お料理を下された。上席は織田常真であった。そのおりのお料理は、蕪の汁に荒和藻の煮物、オロシ大根のナマス、干し魚の焼き物だけであったと言う。

 井伊掃部頭直孝が、初めて彦根に入領しようとする前に、どういうわけか、木綿の綿入れをたくさんこしらえさせて、着城の前夜、お供の諸侍に一つずつ与えられて、明日の晴れ着にするようにと命ぜられ、自分もそれを着込んで入城された。迎えに出た者はいずれも美々しく着飾っていたのに、公を始め、供侍たちの服装を見てかえって恥ずかしく思った。さて着城して諸侍を呼び出して、全員に例の綿入れを与えて申されたことには、いずれの者も、昔は甲冑を着て、場合によっては数日そのままで立ち明かし、衣類も麻布や紙衣の類いだけで、身幅が広く動きが自由になる衣類などは十人に八、九人は着用できなかった。ただ今は平和のありがたさに、この木綿の類いのように、暖かで自由になる物ができた。その上、甲冑をつけることもないので、各々にはこの綿入れを着用して、戦国の苦労を休ませるがよいと、おさとしがあったと言う。

 この他、教訓となるようなことはたくさんあるけれども、書きしるすまでもないので、ほんの一例を挙げて示すだけである。

   

10.忘れてはいけない昭和の軍人達

 

忘れはいけない昭和の軍人達

陸軍中将  樋口季一郎、

明治二十一年八月、淡路島阿万村生まれ

陸軍幼年学功をへて陸軍士官学校、ドイツ語、ロシヤ語に堪能その後陸軍大学校へと進む。ロシヤ語を扱う専門家として研鑽を積む

ウラジオストク特務機関員を拝命、特務機関とは謀報や防諜を主な任務とする特別組織である。情報将校としてハバロフスク特務機関長となる。

 大正十四年から公使館付き武館としてポーランドに駐在。 語学力を生かしヨーロッパの最新情報を収録、分折した。 人間味豊かな性格であった樋口は幅広い人脈を築いた。   昭和十二年八月満州のハルピン特務機関長に就任した。 ハルピン特務機関は満州各地の特務機関を統括する組織であったが樋口はその責任者としてソ連に対する情報戦を指導することになった。日本陸軍にとって最大の仮想敵国は常にソ連であり樋口には大きな期待が寄せられた。 十二月にはハルピンで第一回となる極東ユダヤ人大会が 開催されたが樋口はこれに出席。演説を求められた樋口はドイツで強まりつつあるユダヤ人迫害の趨勢を強く非難した。

 ポーランドでの駐在経験を持つ樋口はユダヤ人問題にも深く通じていた。樋口の演説を聞いたユダヤ人達からは、割れんばかりの拍手が起きたと言う。 しかしその後の樋口のもとには陸軍内の親独派などから批判が寄せられた。時は日本とドイツが友好国として急速に距離を締めていた時代である。樋口のナチス批判を問題視する声は小さくなかった。だが、樋口は困っている者を助けるのが日本精神として、それらの声を一蹴。自身の言動に間違いがないことを固く信じていた。信念の人であった。

 

オトポール事件

 昭和十三年三月、そんな樋口のもとに想定外の一報が届く。 それはソ萬国境のオトポールの地にユダヤ難民が姿を現したと言う知らせであった。ナチスの弾圧から逃げるためシベリヤ鉄道を利用して東進してきたユダヤ難民たちは満州国への入国を求めていた。しかし、満州国外交部は入国ビザの発給を拒否。日本と友好関係にあるドイツの顔色を気にした結果である。行き先を失った難民たちは、原野にテントを張るなどして寒さをしのいでいた。しかし三月と雖も当地の気候は厳しく、すでに凍死者も出ている状態であった。

 樋口はこの事態を重く見た。しかし先のユダヤ人大会への出席の一件から見ても分かる通り、ドイツの国策に反するような態度を鮮明にすることは容易ではなかった。 それでも樋口は人道的な見地を優先し、臨時の特別ビザを発給するように満州国外交部に働きをかける決断を下した。 自らの失脚を覚悟したうえでの結論である。樋口は満州国の国是は五族協和である。宜しくそれを希望する者は満州に留まることを許容すべきである。

 そして樋口はこう決断したと言う。日本とドイツは親善だがやはり日本はドイツの属国ではない。ドイツの悪ないし非の行動に同調すべきではない。 こうした樋口の信念によりユダヤ難民への救いの手は差し伸べられた。難民たちには五日間の満州国滞在ビザが発給されることになった。 樋口は特別列車の手配や受け入れ先の確保といった課題を各方面と速やかに折衝。インテリジェンスの世界へ身を置く樋口は理想主義者であると同時に現実主義者でもあった。その手腕は極めて冷静かつ迅速なものであった。

 三月十二日ハルピン駅に多くのユダヤ難民を乗せた特別列車到着。日本側の配慮により運賃は無料とされた。この特別措置を認めたのは南満鉄道株式会社の総裁の座にあった松岡洋祐であった。 難民たちは近隣のホテルや商工クラブ、学校などに収容された。その後上海や大連に向けて移動していった。案の定、ドイツ外務省からは日本政府に対して抗議の声明が伝えられた。関東軍内部からも樋口を非難する声が上がった。樋口は新京の軍司令部に出頭。関東軍参謀長の東条英機が樋口に説明を求めた。すると樋口は次のように言い放ったと言う。

 参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることが正しいと思われますか、東条は樋口の主張に理解を示し、当然の人道上の配慮、として彼を不問に付した。 すなわち、樋口の指導したこのオトボール事件を支えていたのは、東条や松岡といった昭和史の大物であった。戦後極東国際軍事裁判(東京裁判)によって東条も松岡もいわゆるÅ級戦犯とされたが東京裁判史観の浸透と定着のなかでオトポール事件も語り継がれることもなくうもれていったのである。この救出劇は有名な杉原千畝による命のビザより二年前の話である。

キスカ島撤退作戦

 オトポール事件後、陸軍中将となった樋口は、昭和十八年北部司令官としてアッツ島の戦いを指揮、アッツ島はアリュウシャン列島の西端に位置するが、この小さな島に米軍の上陸部隊が殺到したのである。 札幌市郊外にある北部軍司令部で指揮をとる樋口は、現地守備隊に対して持久戦で戦うことを命じた。東京の軍中央から増援部隊を派兵するとの指針を得た為、それまで耐えるように命じたのである。しかしその後、増援の方針は見送られることになった。海軍側が艦艇の不足などを理由に輸送の方針を一転させた結果である。南方戦線に主力を割いている海軍としても、これは苦渋の決断であった。だがこの決定が意味するところは、事実上のアッツ島の放棄だった。

 樋口は当時の事を遺訓集にこう記している。 五月二十五日ごろと思う。参謀長次長、秦彦三郎中将来道し、現在海軍艦艇の事実上、北方軍作戦企画を実施せしめ、あたわざる理由を粛々説明し奉勅命令を伝達するのであった。それを軍中央としては、なんら的策を講じないということに帰する。私は落涙、この断に随従するほかなかった。 ただしリアリストである樋口はその時、ただ落涙していただけではない。

 樋口はアッツ島の放棄を承諾する代わりに、そのすぐ隣に位置するキスカ島に布陣する守備隊の即時撤退を大本営に求めたのである。当時キスカ島には陸、海軍合わせて五千二百名ほどの将兵が駐留していた。樋口からの具申により、キスカ島の撤退作戦はその後承認された。 アッツ島の守備隊は五月二十九日に壊滅。同島における日本側の戦死者数は、約二千六百人に及んだ。この戦いには玉砕という表現が冠されたがこれは大東亜戦争において初めてのことであった。つまり日本初の玉砕戦がこのアッツ島の戦いだったのである。樋口は日本初の玉砕戦の指揮官になった。

 その後に決行されたキスカ島の撤退作戦では、巡洋艦、阿武隈、を旗鑑とする艦隊が濃霧にまぎれながら米軍の包囲網をかいくぐり、同島の沿岸部に突入。島内に孤立していた将兵達を速やかに収容した。乗船にあたり、樋口は兵器や弾薬を放棄することを認めたが、このことも迅速な撤去の実現に結びついた。「命に掛けても手放すな」と言われた三八式歩兵銃を含む各種兵器を放棄することに関しては反対意見も多かったが、樋口は断固として人命を優先させた。この辺りにもリアリストとしての樋口の資質がうかがえる。

 将兵達を乗せた艦隊は再び米軍の監視網を迂回しながら幌筵島の柏原港まで帰還した。 米軍は日本側のこうした動きを全く確認できなかった。米軍はその後、日本軍の居なくなったもぬけの殻のキスカ島に対し数千発もの砲弾を撃ち込んだ。米軍はこの日本軍の見事な撤退戦をパーフエクトゲームと呼んで賞賛した

占守島での勝利

 樋口のもう一つの大きな功績が占守島の戦いである 昭和二十年八月十五日、日本は敗戦を迎えたが樋口の戦いは終わらなかった。 同年十八日、ソ連軍は千島列島の占守島への上陸作戦を開始。 日本のポツダム宣言受諾後にもかかわらず、ソ連軍は北海道を目指して軍事侵攻を始めた。この時、同地域の防衛を担って射たのが樋口であった。日本は国としての降伏を受け入れ現地の部隊へもすでに武装解除に応じているような状態であったが、樋口は自衛戦争として戦う道を選んだ。樋口は次の様に現地に打電した。断乎反撃に応じ上陸軍を粉砕せよ。 無条件降伏といえども国には自衛権がある。と信じたのである。

 ソ連軍を迎え撃ったのは村上則重少佐率いる独立歩兵二百八十二連隊であった。深い霧が立ちこめる中、孤島における戦闘は悲惨を極めた。一度は終戦の報に接し故郷に帰ったら何をしようか、と笑顔で語り合った兵士達が次々と斃れていった。日本の守備隊は懸命に戦ったが中でも大きな活躍を見せたのが池田末男大佐率いる戦車第十一連隊である。 同連隊は十一という隊号と士と言う字をもじって士魂部隊と称されていた。士魂部隊は次々とソ連軍を撃破。池田は砲塔から上半身を乗り出し大声を発し指揮をしたと伝えられている。この池田戦車隊の果敢な奮戦により、日本軍は優勢に立った。しかし、そんな激戦の中、池田の乗る戦車の側面に一発の砲弾が突き刺さった。戦車は一瞬にして炎上。池田も帰らぬ人となった。享年四十四歳。

 その後の日本軍は積極的な攻撃を停止した。これは自衛的戦闘も十八日午後四時を最終的期限とすると言う大本営の決定による。こうして日本は優勢のまま停戦交渉に入った。交渉は二転三転下が最終的な停戦合意が成立したのは三日後の二十一日であった。占守島の戦いにおける日本側の死傷者は六百~千人、ソ連側の死傷者は千五百人~四千人に及んだ。 占守島でソ連側が足止めされている間に米軍が北海道に進駐。スターリンは北海道占領の野望を諦めた。樋口の決断が無ければ日本はドイツや朝鮮半島の様な分断国家の道を歩んだであろう。

 樋口は遺訓集の中でこう記している。ソ連の強盗ども、との自衛戦においては樺太においても、千島の最北端占守島においても私を始め私の旧部下全部は勝利を以て戦った。反言すればソ連が敗者であった。戦場に散っていった部下達へのことを思っての言葉に違いない。だが、占守島で戦った将兵達はその後ソ連によってシベリアなどに抑留された。樋口はいわゆるシベリア抑留に関して以下のように語っている。敗者たるソ連が勝者たる日本軍人を戦争法規に反して俘虜としその何万人を死に至らしめた。別言を以てすればこれを虐殺した。今日といえども日本に外交がなければならない。世界の国際公法は何と解するか。日本には、いや世界に一体法律が生きているのか。博士論文なためのみの法理が存在するのか、樋口が使う虐殺という言葉の意味は思い。 そんな樋口に対し、ソ連からは戦犯引き渡し要求がなされた。

 しかし、これをロビー活動によって防いだのは(ヒグチビザで命を救われたユダヤ人達であった。ニユーヨークに総本部 を置く世界ユダヤ人協会がソ連の要求を拒否するように アメリカ国防総省に強く働きかけたのである。 そんな活動が功を奏し戦犯引き渡し要求は立ち消えとなった。樋口は昭和四十五年日本イスラエル協会から名誉評議会員の称号が贈与されている。 戦後の樋口は表舞台に出ることもなく、戦争について多くを語らなかった。

 戦後アメリカによって昭和の軍人たちが戦争を引き起こして日本人を不幸にしたと東京裁判史観を日本人に押し付けた。 しかし戦後日本は独立をしたのに第二次大戦の総括をしていない。どうしてあの戦争は起こったのか、陸軍だけが悪かったのか、日本だけが悪かったのか、東条英樹首相だけが悪かったのか、だれが首相になっても戦争は避けられなかったのか、一度総括をしなければいけない。 昭和の偉大な軍人たちは沢山いたのである。 その中の一人に樋口季一郎が居る。